聖徳太子非実在説(2)

聖徳太子非実在説」+「藤原不比等捏造説」がワンセットになったのが、大山誠一氏の「聖徳太子非実在説」というのが俺の理解。『日本書紀』等に記された太子の業績を疑問視する説自体はその前からあり、それは、歴史に特に興味のなかった時の俺でも知っていた(もちろんそれに対する反論もある)。今さら騒ぐほどのことでもない。大山説の特徴は、記録に残る聖徳太子の業績を疑問視するところから一歩進んで、とりたてて何の業績もなかった厩戸王藤原不比等らが政略的な目的で聖人に仕立て上げたとするもの。


「史料に残る聖徳太子の業績には信頼できるものはない」→
聖徳太子厩戸王という平凡な人物であった」→
「では、誰が彼を聖人に仕立て上げたのか」→
藤原不比等らである」→
聖徳太子はいなかった」
という流れになっているのだと思う。


それぞれにツッコミどころはあると思うんだけど、神話や伝説に興味がある俺としては、歴史関係の本にありがちな「この記述は信用できない→誰々が何々のために意図的に改ざんした」という「陰謀論」がどうにも気に食わないんですね。


大体、神話や伝説というものは、それを「信じる」人がいることに価値があるわけですよ。この場合の「信じる」というのは、それが実際にあったことだと「信じる」というのもあるけれど、これが本当の伝説だと「信じる」というのもあるわけです。


伝説というものは不変ではない。たとえば、古来伝わる伝説が荒唐無稽なものだと、そこに新たな要素が加わってもっともらしい話に変わっていく。それは、誰かが意図的に何かの利益のためにしたというよりも、自然な流れとしてそうなっていく。それに関わった人に悪意などない。むしろ、これが本来の伝説の姿だったのだと考える「善意」からの場合だってある。


前にも引用したけれど、『小町伝説の誕生』(錦仁、角川選書)という本に、

あるところに調査に行ったとき小町伝説を語り伝えている人を紹介してもらった。話を聞くと、どうも土地の古い言い伝えではなさそうだ。失礼とは思ったが、古老から聞いた話なのか、土地の古文書にあるのかと尋ねてみた。すると、村の言い伝えをもとに、足りないところは歴史の本から得た知識で補ったという。そして、ワープロで書いた原稿をくださった。「おそらく、これが小町伝説の真相だったでしょう」ということだった。

というエピソードが書かれている。これは言ってみれば伝説の「改ざん」だ。だけど、本人にはその自覚がないし、それによって得られる利益もない。


あるいはまた、「桃太郎」に出てくる鬼は実は渡来人であるという説がある。これは一見もっともらしく、そして現代的で合理的な考えのように見えるけれど、要するに民話の「改ざん」だ。現代人がオリジナルの「桃太郎」のような単純な勧善懲悪に満足できなくなったから、新しい「民話」が誕生したのだ。


それにもう一つ、古代の人にとって、歴史を改ざんするという行為は、そんなに簡単なことではないのではなかろうか。というのも、当時の人達は「神」や「霊」というものを実在するものだと信じていたわけで、「神霊」を疎かにすると「タタリ」があると考えられていたような時代にあって、過去を改ざんすることは、とても恐ろしいことなんじゃないかとも思うんですよね。「聖徳太子」の場合は聖人にされたということで、それはいいのではないかということも考えられなくはないけれど、「書紀」には過去の天皇のあまり褒められることのできない行為も記されているわけで、それは、何事も「忠実」に伝えていこうという意思の表れだと思われるわけで、そして、上に書いたように、むしろ「忠実」に伝えようとすることが、却って本来の伝説を無意識に「改ざん」してしまうこともあるわけで、「事実ではない」=「誰々の陰謀」みたいな単純な話ではないと思うんですよね。


といっても、そう難しい話ではないように思うんだけど、この手のことになると、なんか病的なまでに単純な思考しかできなくなる人が多いように常々思っているんですね。