森の石松の謎

最近テレビで股旅物やらないので知名度落ちていると思われるが、清水次郎長一家の森の石松について。

なお、現在語り継がれている石松は、清水の次郎長の養子になった天田五郎の聞き書きによって出版された『東海遊侠伝』に因るところが大きく、そこに書かれて有名になった隻眼のイメージは、同じく清水一家の子分で隻眼の豚松と混同していた、または豚松のことを石松だと思って書かれたとも言われており、石松の人物像はおろか、その存在すら信憑性が疑われている。

森の石松(ウィキペディア)


森の石松は実は「片目」ではなかった。なぜ「片目」でないのに「片目」だとされたのか。なんてことは、どうでもいいことのように思えるかもしれないけれど、「片目」と「鍛冶」との関係に興味ある俺にとっては非常に興味のあること。
隻眼(ウィキペディア)


さて、ウィキペディアにもリンクが張ってあるが、森町出身である村松梢風の「森の石松略伝」というものがある。
遠州森の石松

 旧幕の頃、秋葉街道に名高い遠州の森に、五郎と云ふ侠客があった。森の五郎と呼ばれ、遠近に侠名を馳せた。
 ひととせ、森町の天宮神社の祭典の折に、境内に一人の迷ひ子が現はれた。年は七、八つの頑是(がんぜ)なさ。何処から来たかと問へば、只指さして「あっち」と答へる。名を問へば「石松」と答へた。
 神社の付近の人々が憐れんで食物など与へてゐる処へ来合せた五郎であった。事情を聞いて五郎がこの迷ひ子の石松を引き取って育てることになったのである。

石松の育ての親は「森の五郎」と言うそうだ。ここで「五郎」に注目。「五郎(ごろう)」は「御霊(ごりょう)」に通じる。鎌倉の御霊神社の祭神は「鎌倉権五郎景政」。左目に矢が刺さったエピソードで有名。
御霊神社 (鎌倉市)
鎌倉景政

 石松の親は木挽であるとも、又炭焼きであるとも云ひ、名も生国も明らかではないが、妻は夙(はや)く喪(うし)なひ、やもめ暮しで、一人児の石松を連れて他国から入り込んで来て、森の奥辺りでさうした渡世を送るうち、不幸にも病のために世を去ったので、あはれ石松は孤児となって山間に取り残される運命となったのであった。併し乍ら、歳に似気なき大胆不敵の性格は其の頃より既に閃めき、足に任せて森の町に迷い出で、図らずも仁侠五郎の手に救ひ取られたのが、其の開運の創まりで、後世に「森の石松」の名を遺すまでに立ち至ったのである。
 石松は幼少より腕白を過ぎた乱暴者であった。しかも、生まれ付き怪力を具へ、十二、三歳になると、すでに大人と角力(すもう)を取っても負けなかった。 元来山の中で育てられてゐるから木登りや走ることは猿(ましら)のごとく、敏捷眼を驚かすばかり。夙くも遊侠者流を学んで到る処で喧嘩をするが、嘗て一度も負けたことがない。然るに育ての親の五郎は、職業柄に似合はぬ温厚の人故、此の石松の乱暴をほとほと持て余した。

石松の実の父親は「木挽」または「炭焼き」であったという。「炭焼き」と「製鉄」・「鍛冶」は明らかに関係する。


炭焼長者/芋掘長者(円環伝承)
「炭焼き小五郎」「芋堀り藤五郎」のように「五郎」という名を持つことに注目。


石松は「孤児」であり、「山の中で育てられ」、「生まれ付き怪力を具え」ていた。このあたり「金太郎」を連想させるが、類話は多数ある。両親のいない石松が山の中で誰に育てられたのか書いていないが、おそらく山姥や動物たちに育てられたということなのだろう。『鍛冶屋の母』で谷川健一氏は、

鉄人伝説という古いパターンがまずあり、柏原弥三郎、平将門、弁慶などの無法で反逆的なあばれん坊にそうした伝説をまといつけ、各地に広めていく山伏や鍛冶師の集団があった。一般大衆もそうした伝説の流布に手を貸したことは大いにあり得る。

と主張している。


以上のことから見て、明らかにこの石松の幼少期の伝説は「金属」と関わりがある、と俺は考える(学者がどう考えているか知らない。関心すら持っていないのではなかろうか)。


問題は「伝説」と「片目」と、どちらが先かということ。
① 石松には元々このような「伝説」があり、そこから「片目」であるとされるようになった。
② 石松が「片目」だという話が流布した結果、「伝説」が発生した。
このどちらかだと考えて間違いないだろうが、おそらく後者だろう(自信なし)。