ファンタゴールデンアップルとポストモダン

前にこのような記事を書いた。
ファンタゴールデンアップル論争


一昔前、ファンタゴールデンアップルについて「あった派」と「なかった派」の論争があった。


俺は当時そのことを知らなくて後で知ったのだが、論争は「なかった派」が優勢のようで、「都市伝説」として、口裂け女トイレの花子さんと同列に語られていたりすることもある。


ところが俺はファンタゴールデンアップルを飲んだことがあるという記憶を持っている。それは俺の中では、かなりはっきりとした記憶であって、それについて論争があることを知り、しかも「なかった」ことにされそうになっているのを知って、すごく驚いた。


ファンタゴールデンアップルは「ある」に決まっている。だが証拠がない。証拠がない以上、あったということを証明できないのだ。ここで意外だったのは、俺は証拠を持っていないが、誰かが持っていても良さそうなものだと思うのに、未だに証拠が出てこないところ。


そうなると不安になってくる。俺の持っている「記憶」は果たして「正しい記憶」なのだろうか?確かに絶対に正しいとは言い切ることはできない。「ゴールデングレープ」と混同したのだろうと言われれば、そうかもしれないなんて不安になってくる。


しかし、俺の持っている記憶で、証拠がすぐに出てくるものなど僅かしかない。時間と労力をかければ証拠を見つけることが出来るものはあるだろうが、それも証拠が見つかるだろうという見込みであって、必ず見つかるという保証はない。そして探しても見つからないだろうと最初から予測できる記憶も無数にある。証拠がないものは「幻」だなんてことになったら、俺の人生の大半は「幻」だ。


ファンタゴールデンアップルについて言えば、俺の記憶は、工場見学のときに飲んだというものだ。実際に販売されたという記憶は曖昧。だから、コカコーラ社が販売したことはないという公式見解を発表しても、否定されるものではない。証拠が見つからないのも、極めて少数のものだったということで説明がつく。そもそも、商品名が書いてあったかということも、当時そんなことは気にしていなかったからわからないが、書いてなかったとしたら、ビンや王冠などの物証そのものが最初からなかったことになる。


また、コカコーラは地域ごとに違う会社が作っているのだから、地域によって商品が違う。ある地域では誰に聞いても「なかった」という答えが出てくることは当然ありえる。「ある」についても地域によって記憶が異なっていることは有り得るから、俺の持っている記憶とは異なる記憶を持っている人については、それが本当なのか勘違いなのか俺には判断がつかない。


で、とにかく証拠がないのであるから、「歴史学」はゴールデンアップルが実在を認めないだろう。そして認めないのはけしからんと批判することも無理難題を押し付けていることになる。だが、だからといって、その記憶を持っているものが「あった」と言うことに対して、「嘘を言うな」とか、「頭がおかしいんじゃないか」とか、「そんなことを言うのは何か魂胆あってのことじゃないか」とか頭ごなしに批判するのは失礼だと思う(そんな奴はいないだろうけど)。そして「記憶違いじゃないのですか」というのは有りだろうけれど、それだって「ない」ということを前提にしての話だったら失礼なことだと思う。