イザヤ・ベンダサン(山本七平)は何を間違えたのか(3)

注:これは自分の頭の整理用ですので悪しからず。

既にイザヤ・ベンダサン山本七平)が間違えているのは明らかだが、なぜ彼は間違ったのか。それは浅見定雄の『にせユダヤ人と日本人』が指摘するような理由なのか。


その前に、以下のことを検証してみたい。浅見説では、ベンダサンのネタ本は、「山本書店刊、ダニエル=ロプス著『イエス時代の日常生活』」の、

もしサンヘドリンが全員一致で有罪の宣告をしたときは、判決は「繰り越しとなった」

だとする。そして、

ここでも、そもそもダニエル=ロプスさん(以下「ロプス」さんと略す)の文章に致命的なまちがいがある。タルムードの原典には「全員一致」という一番かんじんの一句がないのである!原典では、死刑判決は(いやしくも一人の人間を地上から抹殺してしまうのであるから)、全員一致であろうとなかろうとすべて「翌日まで繰越す」のである。

として、ダニエル=ロプスを批判する。ところがよく読んでみれば、ロプス本には「宣告」と書いてあるのだ。原文には何と書いてあるのかはわからない(予想はつくが後述)。


思うに、ここでいう「宣告」とは、「全員一致の主張」のことである。そして「繰り越し」とは、浅見説の「繰越す」ではなく、「全員一致の主張(宣告)」後の「再審」(とりあえずこう呼ぶ)のことである。全く違う話なのだ。

ところがロプスさんは、審理の過程と判決とを混同してしまった。「全員」を六センテンスもあとの「判決」と結びつけて、無意味な規則を創作してしまったのである。

ということではなくて、単に「全員一致の主張(宣告)」が発生した場合のことを書いているに過ぎないのだ。その日本語訳に「宣告」「繰り越し」とあるのが「誤解」を招いたのだ。批判すべき点があるとすれば「日本語訳が不適切」だということなのだ。

というわけでロプスさんは「全員一致の弁論」を「全員一致の判決」と変えて、

と「ロプスさん(の翻訳者)」は「宣告」と書いているのに、なぜか「判決」と変換している。それは浅見氏にとっては自然なことだったのだろう。しかし、そうではないのだ。本当は「ロプスさん(の翻訳者)」は、「全員一致の弁論」を「全員一致の宣告」と翻訳した。そういうことなのだ。「宣告」と「判決」は違うのだ。というか「ロプスさん(の翻訳者)」も文中で区別しているではないか。


なぜこんなことになったのか。それは、この件で英字サイトを検索してみれば自然に解明する。たとえば英語版ウィキペディアを見ると、

If the Beth Din arrived at a unanimous verdict of guilty, the person was let go - the idea being that if no judge could find anything exculpatory about the accused, there was something wrong with the court.

Corporal punishment (Judaism) - Wikipedia, the free encyclopedia

とある。「verdict」と書いてあるのだ。「verdict」は日本語では、

• 1. 〔陪審員の〕評決{ひょうけつ}、判決{はんけつ}、答申{とうしん}
• 2. 判断{はんだん}、意見{いけん}、決定{けってい}、裁定{さいてい}

英和辞典 - goo辞書

「判決」は「verdict」。「判断」・「意見」も「verdict」なのだ。これを何と訳すのかは日本語翻訳者のセンスにかかっている。「繰り越し」については、原文が何だったのかはわからない。しかし、それが意味するところは「翌日まで繰越す」」とは別の「繰り越し」だっただろうと考えるほうが合理的ではないか。「ロプスさん」は「翌日まで繰越す」などとは書いていないのだ。

(追記)ロプスさんはフランス人だからフランス語で「verdict」(評決、意見)か。


まだあった。

(ついでに言えば、ロプスさん、ここの所でもうひとつ誤解をしている。ロプスさんの本を読むと、全員一致のときは一晩「繰越しとなった」その上でさらに「最後に、判決の執行は……有罪であれば二十四時間延期された」となっている。最終判決までに一晩、そして刑の執行までにまた二十四時間、まるで合計二日あったかのようである。これは、四章と五章が同じことの「原則」と「実際」なのに気づかず、前後の関係にあると勘ちがいしたせいである。)

わかってみれば、これは実に興味深い記述だ。『一晩「繰越しとなった」』とあるが、「一晩」は浅見氏が付け加えたのだ。ロプスは「一晩」などとは書いていない。そして「判決の執行」とある。さっきは「宣告」だったのに、ここでは「判決」だ。ロプスさんの翻訳者が両者を区別していることは明らかだ。「宣告」を「判決」と勝手に置き換えたのは浅見氏なのだ。「まるで合計二日あったかのようである」のは、浅見氏が両者を混同しているからなのだ。勝手に「一晩」と加えておいて「合計二日あったようである」と言っているのだ。


なぜこんなことになったのかというと、おそらくベンダサンの「一昼夜おいてから再審」が翌々日のことであるように見えるので、それと対応させたのだろう。だがおそらく、ベンダサンとロプスの間には関係がなく、ベンダサンの間違いは独自のものであろう。