イザヤ・ベンダサン(山本七平)は何を間違えたのか(2)

注:これは自分の頭の整理用ですので悪しからず。


ベンダサンの「全員一致の判決」(正確には「全員一致の議決(もしくは判決)」だが長いので略す)とは、実は俺の連想する「判決」のことではない。これは「判断」「意見」のことなのだ。これが非常に頭を混乱させる。


「全員一致の判決」を「第一審の判決」のように理解すると、この判決はそれで終了。この日の裁判結果は「全員一致で有罪」。そして後日、再び審理やりなおし。そうなってしまう。ところがそうではないのだ。


裁判が開始される。この時点での「判断」は有罪でも無罪でもない。審理が始まり目撃証言や証拠が提出される。それを見て有罪、無罪の「判断」をする。


「全員一致の判決」とは、実は「全員一致の判断」のことであり、全員が被告を有罪だと「判断」した時点のことなのだ。犯罪にもいろいろある。某カレー事件のように有罪無罪の判断が難しいのもあれば、某通り魔事件のように誰が見たって犯行が明らかなのもある。後者のような場合、「判断」は裁判開始早々の段階で「全員一致で有罪」になることだって有り得るのだ。


これが「全員一致の判決」の真相である。


次に、これが「免訴」になるとはどういうことか。実はこれは「訴訟を打ち切る」ということではないのだ。ではどういうことかというと、言葉で説明するのが難しい。「囚人は免れる」「囚人は自由」「無罪」「無効」みたいな感じになるのだが、それだと誤解される。裁判が無効になったわけではないし、囚人が釈放されるわけでもない。俺流の解釈だと「宙に浮いた状態」みたいな感じ。


次に、「一昼夜おいてから再審」。これは翌々日(または翌日)再審するということではないのだ。「再審」という言葉が適切かどうかはともかく、「再審」は「全員一致で有罪の判断」が発生した時点から始まるのだ。


全員が囚人を有罪だと判断したということは、どういうことかというと、ユダヤの考えでは、それ以上審理する意味がないということなのだ。なぜなら、囚人は有罪であることが明らかなのだから、誰も囚人が無罪である証拠を探そうとはしなくなるからだ。これから何日、何週間審理しようとも囚人の有罪が覆ることはないのだ。


しかし、古代ユダヤの裁判の目的は、囚人を「救う」ことなのだ。とはいってもこれは現代の「人権尊重」とは違うのだが、ここでは略。誰も囚人に有利な証拠を探さなくなるということは、裁判の目的が達成されなくなるのだ。そこで、死刑で有罪の場合、全員で有罪を主張してはいけないと「義務付け」されているのだ。


というわけで「全員一致で有罪の判断」をした時点で「再審」が始まるのだ。翌日に「再審」するのではない。この時点から「再審」が始まるのだ。「死刑で有罪」の場合、判決は翌日に繰越す。だから「再審」は、初日の「全員一致で有罪」の時点から翌日まで続くことになるのだ。


「一昼夜おいてから再審」の真相は、「一昼夜」とは翌日のことであり、「全員一致で有罪」の時点から、翌日まで「再審」するということなのだ。これは明らかな間違い(多分誤訳)なのだ。


「二説あって」というのは「二説」のどちらか一つということなのではなく、「再審」をして、全員一致が解消されるまで、囚人が「免訴」されているというのが真相なのだ。囚人が「無罪だと判断(囚人が無罪である証拠が見つかったと主張)」した人が出てくれば、「大多数の有罪の判断」によって囚人は目出度く「処刑される」のだ。