選択の自由なんて幻想だ

この閉塞状況に対するもう一つの答は、安冨歩氏もいうように、選択の自由なんて幻想だと悟り、希望を捨てることかもしれない。この「東洋的な道」の先に何があるのかは、正直いってよくわからないが・・・

希望について - 池田信夫 blog


俺は自称「保守」なんだけれど、「保守」と(いわゆる)「新自由主義」はよく混同されている。でも両者はやっぱり別のものでしょう。まあ、池田氏によると「新自由主義」の定義が怪しくなってくるんだけれど。


確かに保守と新自由主義は似ている。でも、元々保守は自由主義と対立していたはず。それはなんでかっていうと、俺の理解では自由主義が「イデオロギー」だからってことなんだと思っている。でも「保守主義」は「主義」って言うくらいだから「イデオロギー」なんじゃないのかって話なんだけれど、実際、保守にイデオロギーはないって書いてあるものはある。ただ、それじゃ比較するときややこしいんで「保守」も「保守主義」ってイデオロギーっぽくして、それなりに理論武装してるって話なんだと思いますね。


保守の言う自由ってのは、一元的な権力からの自由であって、伝統的価値観や共同体のルールなどからの自由って話じゃないと思う。それらはその社会に属する人達によって作られるものであって、その社会の成員はそれに規制される。その社会の外部からの規制については抵抗するというのが保守なんだと思う。で、民主主義だろうが社会主義だろうが、自由主義だろうが、そういう「主義」はまさに外部から持ち込まれたイデオロギーであって、保守はそれを疑っている。ただし、実際に効果があれば、その部分を取り入れて、共同体の「伝統」として受け入れるかもしれない。


で、「選択の自由」なんてものも、そりゃ結構なことではあるけれど、その理想は人工的なものであり幻想であり、それによって人が縛られるのは、やはり嫌だって感覚はある。「選択の自由があるのが良い」ってのと「選択の自由がなければならない」てのは違う話でしょう。それは別に「東洋的な道」なんてものじゃなくて、普通に保守が持っている感覚なんじゃないですかね。