ユダヤ教やイスラム教でなぜ豚肉が不浄とされているのかというよりも、むしろ、こっちの方が不思議なことではなかろうか?
ユダヤ教にルーツをもつキリスト教徒もその多くは、豚を食べる事を制限する傾向があったようだ。
キリスト教徒の場合、四旬節の頃には、肉を食べる事を制限して、肉を食べないことの苦痛でキリストの死の苦しみに思いを寄せようとする習慣がある。新約聖書でも、イエスが悪魔に憑かれた人間から悪魔を追い払い豚に乗り移らせ、湖に走り込ませて溺死させた事が書かれている。
「ガダラの豚」
彼は彼らに「行け!」と言った。
彼らは出て行って豚の群れの中に入った。すると見よ,豚の群れ全体ががけを下って海に突進し,水の中で死んだ。
すぐにイエスは彼らに許可を与えた。汚れた霊たちは出て行って豚たちの中に入った。二千匹ほどのその群れは,険しい土手を下って海に突進し,海でおぼれ死んだ。
これをどう解釈したらいいのか。豚をタブー視してるとか蔑視してるとか考えようと思えばできなくもないのだろうが、よくわからん。
聖なるものを犬たちに与えたり,あなた方の真珠を豚たちに与えたりしてはいけない。彼らがそれらを足の下で踏みつけ,向き直ってあなた方を引き裂くことのないためだ。
⇒マタイによる福音書(電網聖書)
これは豚を蔑視しているようには見える。でも豚肉のタブーとは関係ないような…
キリスト教と豚の関係。興味深い。
ところで、イエスをめぐる伝承では、子どもを小屋に隠して、そこにいるのは豚ですよ、と答えたユダヤ人の農婦が、そのため子どもが豚になる罰を受けたという話があちこちに伝わっている。そこからユダヤ人の豚肉忌避がおこるというキリスト教世界での伝承なのだが、これが、ユダヤ人を豚と同一視する差別のまなざしを生み出すのである。そしてキリスト教世界では、豚肉を禁ずるユダヤ教と決別するために、3世紀のアンティオキアの公会議で、豚を食べようとアピールする。
豚は、豚を忌避するユダヤ人を指す蔑視のことばとなってゆく。スペインのユダヤ人弾圧時に、不本意ながらキリスト教に偽装改宗 したユダヤ人たちは、そのものずばり「マラーノ(豚)」と呼ばれていたのである。「ユダヤ人と豚の腹は、死んだ時にしか大事にされない」というフランスの ある地方のことわざもまたそうした差別の一端を示している。
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(でも、理屈はともかく、元々ヨーロッパで豚肉食ってたから禁止することができなかったってことだったりして)