織田三郎

織田信長の通称は「三郎」


それについて、織田信秀の三男だったから三郎なのだという説がある。俺がネットを始めた頃に掲示板で、そういう話題が結構あった。


Wikipediaには、

尾張国・古渡城主・織田信秀の嫡男として生まれ[2]、幼少時に那古屋城主となっている。

とあり、

^ 異母兄が2人いるとする説がある。この説は小和田氏によるもので、『武功夜話』などに基づくことから信憑性が薄い。この異母兄とされるのが庶兄・信広と異母弟・信時(秀俊)であるが、信時は他史料や系譜では五男または六男とされているため、織田氏研究者の間で議論になっている。

と注がある(また小和田氏か、あと八切止夫も言ってたような気が、あと井沢元彦)。


また、その下の「少年期」では、

天文3年(1534年)5月12日、尾張国戦国大名織田信秀の次男として、勝幡城那古野城説もある)で生誕。

と「次男」と書いてある(フロイスの報告書にそうある)。

織田信長 - Wikipedia


しかし、信長が「三郎」なのは、三男だからではないと考えられる。

この三郎とは、清洲三奉行家の一つ織田弾正忠家の嫡男が名乗る「仮名(けみょう)」という名乗りである。
(『図解雑学 織田信長』西ヶ谷恭弘 ナツメ社)


信秀も信定も「三郎」だ。
織田信秀 - Wikipedia
織田信定 - Wikipedia


では、なぜ「三郎」なのかといえば、わからない。それに、あまり関心を持つ人もいない。


検索してみると、信長系統の祖が三男だったからだろうと考察しているものもある。そうなのかもしれない。しかし、もっと深い意味があるのかもしれない。


そこのところを、妄想をたくましくして推理してみたい。


(つづく)


※ちなみに信長の異母兄、信広は、通称「三郎五郎」
織田信広 - Wikipedia