信長はなぜ三郎なのか(その6)

☆信長の蛇退治(2)

引き続き『信長公記』(角川ソフィア文庫)より

正月下旬、彼の又左衛門をめしよせられ、直に御尋ねたされ、翌日、虵がへと仰せ出さる。比良の郷・野木村・高田五郷・安食村・味鏡村百姓ども、水かへつるべ・鋤・鍬持ちより候へと仰せ出たされ、数百挺の釣瓶を立てならべ、あまが池四方より立ち渡り、二時ばかりかへさせられ候へども、池の内水七分ばかりになりて、何どかへ侯へども同篇なり。然処、信長水中へ入り、虵を御覧あるべきの由候て、御脇指を御口にくわへられ、池へ御入り侯て、暫が程侯て、あがり給ふ。中々虵と覚しき物は侯はず。鵜左衛門と申侯て、よく水に鍛錬したる者、是又、入り侯て見よと候て、御跡へ入り見申すに、中々御座なく侯。然る間、是より信長、清洲へ帰り給ふなり。

信長が大蛇の話を聞いて、百姓を動因して池の水を掻きだしたけれど、蛇は見つからず、清洲へ帰ったという話。


ところが、この時に信長暗殺計画があったのだ。

去程に身のひゑたる危き事あり。子細は、其の比、佐々蔵佐、信長へ逆心の由風説これあり。これ依つて、此の時は正躰なく相煩ふの侯由て罷出でず、定て信長小城には、当城程のよき城なしと風聞侯間、此次(ついで)に御一覧侯はんと仰せられ侯て、腹を御きらせ侯はんと存知られ侯処、家子・郎党長(おとな)に井口太郎左衛門と申す者これあり。其儀においては任せ置かるべく侯。信長を果し申すべく侯。如何となれば、城を御覧じなされたしと井口に御尋ねあるべく侯。其時我々申す様に、是れに舟御座侯間、めされ侯て、先かけりを御覧じ侯て然るべしと申すべく侯。尤と御諚侯て、御舟にめされ侯時、我々こしたかにはし折り、わきざしを投出し、小者に渡し、舟を漕出し申すべく侯。定めて御小姓衆ばかりめし侯歟。たとへば五人・三人御年寄衆めし侯共、つがひを見申侯て、ふところに小脇指をかくしをき、信長様を引きよせ、たゝみかけてつきころし、くんで川へ入るべく侯間、御心安かるぺく侯と、申合せたる由承わり侯。信長公御運のつよき御人にて、あまが池より直に御帰りなり。惣別大将は、万事に御心を付けられ、御油断あるまじき御事にて侯なり。

この頃、佐々成政は信長へ逆心との風説があったので、成政は病と称して出てこなかった。信長が(成政の)城を見物すると言い出し、それを名目にして城に来て成政に切腹を命じるのではないかとの憶測があったところ、井口太郎左衛門という者が信長を討ち果たすと申し出た。信長を舟に乗せて、お供が小姓だけになったところを刺し殺そうというのだ。しかし信長は運が良くて、池から直で帰ったので無事だった。というお話。


ここに井口太郎左衛門という男が登場する。


既に書いたように、伊吹の弥三郎は佐々木頼綱によって退治され、井の口にまつられ、水神として守護神の役割を果すようになったのである。


また、岐阜の旧名は「井口(井の口)」であり、信長は「井ノ口は城の名悪し名を易給へ」と言って岐阜に改名したのである。


信長を暗殺しようとした男の名が「井口」であり、舟に乗せて殺そうとしたというのは、単なる偶然で片付けられるものではない。


※「くんで川へ入るべく侯間」とあるのは井口太郎左衛門が信長にまとわりついて一緒に入水しようということだ。これは井口が蛇であることを暗示しているのだろう。前に調べた「影取」と通じるものがあると思う。
長池と蛇 - 国家鮟鱇


※ちなみに佐々氏の出自は近江の佐々木氏だという説がある。
佐々氏 - Wikipedia


こういうことは、もっともっと注目されるべきものだと思うのだが、おそらく誰も指摘していないのではなかろうか?少なくとも俺の知る限りでは見たことがない(信長が迷信を信じず、何でも確認しなければ納得しない科学的思考を持っていた云々とかいった説は見たことがあるけれど)。


※なお、
信長と鉄(井上力・もう一つの史話)
というページが、このエピソードについて製鉄との関わりについて考察している。


※ついでに言えば浅井長政の母で、信長に指を切断されて殺された「小野殿」も井口氏だったりする。
小野殿 - Wikipedia