共存不可能な価値観にどう対処するのかという現代の大問題

朝日新聞社説 たばこ値上げ―喫煙者のためにもなる : asahi.com(朝日新聞社):社説 - finalventの日記

朝日新聞社説 たばこ値上げ―喫煙者のためにもなる : asahi.com朝日新聞社):社説

 私はこの発想、「喫煙者のためにもなる」はファシズムへの小さな一歩だと思う。

 喫煙者は値上げを望んではいない、がその健康には役立つ。つまり、おまえの幸せは私(国家)が知っているという構図だ。ろくでもない。

 誰のためになるかといえば「公」である。公が所定のルールでマイノリティーを抑圧しているだけのことだ。ルールの背後にあるのは、国家の保障の限界や公として他を守るため、とはいえタバコを密室で一人吸う分にはどうということでもない。


一方にタバコを吸いたい人がいる。もう一方にタバコを毛嫌いする人がいる。


さらには近くで吸われるだけでなく、吸っている人が存在すること自体が気に食わない人がいる。そういう人がそう考える理由はいろいろあるだろうけれど、たとえばタバコで健康を害することは、国力を弱めるとか、社会保障の負担が増えるとかを問題視するとか、あるいは健康を害するであろう人がいるのは、(その人のためではなく)自分にとって我慢ができないことであるという考えもあるだろう。


単に近くでタバコを吸ってほしくないというだけならば、分煙で解決する道もあるだろうけれど、タバコ自体が気に食わない人にとっては、タバコを吸う人が絶滅する以外に解決の道はない。すなわち両者は共存不可能。


こういうケースはどうすれば良いのか?


俺が考えるに平和的な解決は不可能だと思う。どちらかがどちらかを抑圧する以外に解決方法は存在しない


しかし、そういう考えは嫌われる。今の日本ではそれが悪いことのように考えられている。したがって、両者の対立を「善悪の戦い」という図式に落とし込むことになる。そうすることによって己の行動を正当化し、良心の呵責が発生しないようにする。


「相手の自由を奪うことは、自分の欲求を満たすためなのではない。自由を奪われるのはそっちの側に責任があるのだ」と。


現代にはそういうことが溢れかえっている。でも、俺はそれでいいのかと常々思っている。「それでいいのか」とは、「相手の自由を抑圧していいのか」ということではない。そうせざるを得ない二者択一の選択は世の中にいっぱいある。問題はそうやって「正当化」していいのかということだ。


わかりやすい例で言えば、肉食や毛皮の禁止を訴える一部の過激なアニマルライツと、それ以外の人々との対立がある。アニマルライツから見れば、我々が譲歩して肉食の量を減らしたところで納得しないであろう。彼等にとって牧畜や肉食は、人を牧場で飼い、それを殺して食べるのと同義であろう。我々がそれを許せないのと同じに、彼等は動物に対するそれも許せないのだ。


両者の対立のどっちが正しくて、どっちが間違っているなどということが可能であろうか?もしかしたら将来アニマルライツの主張が主流になっている世界になっているかもしれない。その世界では現在の平凡な一市民である俺が牛丼を食べている写真が紹介されて、極悪人のレッテルが貼られているかもしれない。


現在がそういう世界ではないことは俺にとって幸いである。しかしアニマルライツを支持する人にとっては苦痛な世界であろう。だからといって俺はそれに譲歩する気はないし、それを心配する必要は今のところない。なぜなら現在は肉食を許容する考えの方が主流だからだ。


それは「正しい」からそうなっているわけではなくて、肉を食べたいと考えている人と、菜食主義ではあるけれど肉を食べる自由を抑圧したくないと考えている人が多数を占めているからだ。それは一方では肉食を禁止したいと考えている人達を抑圧しているということだ。


「正当化」はこの事実を隠蔽してしまう。それが好ましいことだとは俺には思えない。なぜなら、その「正当化」によって自分自身が抑圧される対象になったときに、「それはお前が悪いからだ、間違っているからだ」という論理を使われてしまう可能性があるからだ。現代においてこれはかなりの高確率で経験することになるだろう。というか俺はタバコを吸うので、既に経験しているわけだ。



相容れない意見を「間違っている」とすることについて - 国家鮟鱇