「杜の里から」というブログを運営されているOSATO氏からコメントを頂きました。
⇒ニコ生シノドス『ホメオパシー騒動とニセ科学論争の行方』見たよ(6) - 国家鮟鱇
で、ご紹介の記事の感想を。
⇒ホメオパシーを考える - 杜の里から
まず、一読して思うのは、OSATO氏はホメオパシー問題に対して真面目に考察しておられ、かつ、ホメオパシーを信じている人に対する態度は、嘲りや見下したところは見られず、その点については好感が持てます。
しかしながら、
別な見方をすれば、ホメオパシー側からすればこれは厳然たる「科学」であるという立場であり、しかし現在の科学側から見れば、それは「科学ではない」という対立の図式がここにある訳です。
でもホメオパシーの歴史などを紐解いてみると、これは元来科学の土壌に登るものではなく、その理論はあくまで「思想」であって人々の「信仰」の対象であるものだと思うのです(→参照)。
だから私から言わせてもらえば、ホメオパシー側から「それがプラセボでなぜ悪い?」と開き直る人がどうしていないのだろうかといつも不思議に思うのです。
の部分には引っかかりを覚えます。
正統な科学の立場から見ればホメオパシーは明白な疑似科学です。一方、ホメオパシー側はそれを「科学」だと見做しているというのは、これはその通りであります。そして、ホメオパシー側が「科学」であるという立場を放棄すれば、問題は(全てというには程遠いような気もするけれど)少しは解決するかもしれません。
しかしながら、これは「こちら側」の願望に過ぎないものだと思います。彼等が「科学」であることを放棄するか、しないかは彼等の側に委ねられています。こちらからは強制することはできません(これは理解されていることだろうとは思いますけれど)。
ここで重要なのは「正統な科学」と彼等の考えている「科学」は違うものだということです。彼等は自分達の考える「科学」が「正統な科学」であると考えているかもしれないけれども、それでもやはり違うものです。
俺の考えでは、ホメオパシーの信奉者がそれを彼等の考えるところの「科学」であると考えることは、これはもう仕方のないことだろうと思います。
もちろん、これは彼等に「正統な科学」を理解させることを放棄すべきだという話ではありません。
そうではないけれども、彼等が彼等の考えているところの「科学」を信じるということは、これは一応筋の通った話であって、ホメオパシーだと中途半端なところがあるから困惑するけれど、これが魔術やまじないの類であれば、彼等がそれを「科学」だと言ったところで、「正統な科学」とはあまりに違いすぎるので困惑しないのではないかと思います。
ホメオパシーは「医療」ではなく「信仰」なのです。
それは客観的には事実であると言っていいでしょう。ただし、より正確に言えば
ホメオパシーは「医療」ではなく「医療だと考える信仰」である
ということになると思います。
だとすれば、ホメオパシーを信仰だと認めよというのは、信者に対して「信仰を止めろ」と言っていることに他ならないのではないかと思うのです。
俺は前にこれと似たケースについて書いたことがあります。
⇒科学至上主義 - 国家鮟鱇
弘法大師が今も生きているなんて非科学なことを言うのはやめて、弘法大師の思想が生きていると言えばよいなどと科学者が提言するなど余計なお節介だと俺は思います。さらに、宗教の大事な部分を改変することに「何の不都合があろう」などと言うに至っては傲慢という他はないと思います。
というわけで、(彼等が自主的にそれを撤回するというのなら結構な話ですけれど)ホメオパシーを「科学」だと認識するのは信奉者の自由であり、それを止めても別に支障はないはずだみたいな話は「こちら側」から見ればそう見えたとしても、「あちら側」からすれば絶対に譲れないことであるかもしれず、「こちら側」だけの視点で判断するのは、まさに「信仰の自由」を侵す危険があるのではないかと思うわけです。
なんてことを書くと「ホメオパシー擁護だ、けしからん」という批判が出てくることが当然予想されるわけですが、俺はホメオパシーを支持しているわけではなく、社会的に害悪があるのなら断固とした処置を取ればいいと思っています。
ただし、それは「こちら側」の利益(都合)のためであって、彼等との共存が不可能であるが故に、彼等に犠牲を強いるものだという自覚が必要だと思っているわけです。
それを、「こちら側」が親切に歩み寄っているのに「あちら側」がそれを無視したみたいな話になるのは好ましくないと思うのです(OSATO氏がそうだと言っているわけではないです。念のため)。