続・聖徳太子研究における「最大の素朴な疑問」

聖徳太子研究における「最大の素朴な疑問」(その1) - 国家鮟鱇
聖徳太子研究における「最大の素朴な疑問」(その2) - 国家鮟鱇

に対して石井公成教授よりメールにて「無理かと思います」という反論が寄せられた。仏教文献においては配置については四天王の次に菩薩を置くか、菩薩の後に四天王を配置するとのこと。そいういう知識はほとんど無いので、ご指摘は大変ありがたいです。


しかし、それで納得できるかといえば、俺は納得できないのであります。以下そのことについて俺の考えていることを箇条書きにて。


その1、『日本書紀』は宗教の経典ではなくて「歴史書」である。
その2、太子の逸話は『書紀』編纂者が太子を聖人とする目的で捏造したものではないと考える。
その3、故に太子の逸話には元となる史料が存在したと考える
その4、その元史料は太子を仏教上の聖人としたものであった可能性が高いと考える。
その5、しかしながら『書紀』編纂者は「歴史書」の史料として採用するに当たって「宗教性」を排除し「歴史的事実(と編纂者が考えるもの)」のみを採用したと考える。
その6、そのため本来は聖人として描かれていた太子が「書紀」を見ると皇子の序列で三番目に過ぎないように見えてしまっているのではないか。


ということであります。


俺は、元史料では皇子達の様子を絵画もしくは図のようなもので描写されていたのではなかろうかと推測します。『書紀』編纂者は太子が最重要人物とされていることに気付いた可能性は高いと思うけれども、「歴史書」作成者として宗教的な部分を排除した。しかしながら、図そのものは史実を反映していると見做して、前方から順番に文字のみで『書紀』に記した。すると太子は前から三番目となる。そういうことだったんじゃなかろうかと推測しているわけです。



ちなみに歴史的史料から宗教性を排除して歴史的事実(と考えるもの)のみを採用するという方法は現在の歴史学者もそれを実行しているというのが俺の認識であります。


たとえば、桶狭間の合戦。このとき突然の豪雨があったことは歴史に詳しくない人でも良く知っていることであります。そして、それによって今川方が混乱したことが信長の勝因であるなどと実しやかに議論されているのであります。しかしながら、『信長公記』においてのこの記述は、太田牛一(これにも元史料があったかもしれないけれど)にとっても、またそういったことを企図したものではなくて、信長が熱田大明神の加護を受けているということに主眼が置かれていると俺は思うわけです。
桶狭間合戦の勝因 - 国家鮟鱇


豪雨が織田方に有利に働いたというのは事実なのかもしれない。それはそうかもしれないけれど、それだけではないと思うわけです。ところが、『信長公記』を読んでない人でそんなことを考える人はほとんどいないでしょう。なぜなら桶狭間合戦を記した本を読んでも『信長公記』のその記述を取り上げているものはほとんど無いからであります(皆無ではないけれども)。そして『信長公記』を読んでいる学者や在野の研究者でも、それに注目する人はごく一部の人だけなのであります。


このように、現在の「歴史書」において桶狭間合戦が「熱田大明神の神軍」だという要素が排除され、豪雨が降ったという「事実」のみが記されているということが、俺に『日本書紀』において、聖徳太子が5皇子の中心にいるという要素が排除され、順番のみが記されているのではないかということを連想させるのであります。