秀吉の母の「なか」という名前

秀吉の母は名前を「なか」と伝えられている。「なか」と言えば「ナーガ」すなわち「蛇」である。


ということを前々から考えている。しかし「ナカ=ナーガ」という説は割と有名なのに、そういう説を今迄一度も見たことがない。


歴史学者はこういう思いつきでは物が言えないのかもしれない(実際には結構思いつきで言っているところがあると思うが、少なくともそういう言い訳はできるだろう)。民俗学者も学者であるから、それなりの根拠が無ければ言えないのかもしれない(という言い訳ができるだろう)。しかし、民間の研究者や小説家等なら、そういうことから自由であり、実際に大した根拠の無いことを垂れ流している人も多い。なのに、なぜそういう説が出てこないのか全く不思議である。とはいえ、俺が思うにそういうことは他にも山ほどあるのである。


と常々思うところを書いたところで本題。


『真書太閤記』によると、彼女は「下中村」で鍛冶を営む叔父の五郎助に養育されたが、そこでに「仲」と呼ばれたとある。すなわち、それ以前にも名前があったはずだが不明であり、「下中村」に住むようになってから「なか」と呼ばれたのである。


「なか」の名前の由来が「中村」の「なか」であるとしたら、中村に住む女性は「なか」だらけになってしまう。したがって、中村にいたから「なか」なのだという解釈は無理である。彼女が特別な女性であったから「なか」と呼ばれたのだ。もちろんそれは「伝説」の解釈であって、史実としてそうだったのかはわからない。「伝説」の中の「なか」はそういう存在だということだ。


俺が思うに可能性は二つある。一つは彼女は本当は「なか」と呼ばれていなかったという可能性。もう一つは、伝記は史実ではないが、「なか」という名前は本当であり、そう呼ばれた理由は、彼女が中村において特殊な位置を占める女性であったからという可能性。それは鍛冶に関わるものであっただろう。中村には「仲の叔父の鍛冶屋の五郎助」とか「加藤清正の父の鍛冶屋の五郎助」の伝説があるのだから、「中村」の「中」ももちろん「ナーガ」と関係があるのだろう。


というようなことは学者その他の秀吉関連の本を読んでみても、ちっともそれを考察している様子が見えないのである。


なお、秀吉の妻の母は朝日村の朝日」である。これももちろん考察する必要があるだろう。