⇒天孫降臨神話の真実(その8)のつづき
アマテラスは「太陽神」だといわれる。しかしながらアマテラスが太陽として振る舞っていると考えられる神話は俺のみるところ「天岩戸神話」くらいのものであって、後は「アマテラス」「日神」「オオヒルメ」といった名前が太陽神だと連想させているのである。
また我々は太陽のことを「アマテラス」とは呼ばない。太陽を神格化した呼び名は一般的に「お日様」とか「お天道様」だ。俺は伊勢信仰に詳しいわけではないけれど、アマテラスは皇祖神であって天皇が祀る神であり、一般民衆が祀る神ではなかったと認識している。一般民衆に信仰が広まったのは朝廷の衰退により信者を獲得するために御師が布教に努めたためで中世以降のことだと思う。江戸時代に伊勢信仰が盛んになったことは良く知られるところ。アマテラスは直接民衆に恵みを与える神というよりも、天皇の氏神として民衆との関わりは間接的なものだったと思われる。
「天岩戸神話」は有名だけれども、太陽をアマテラスと認識していない一般民衆にとっては、日常生活とほとんど関係ない神話だと思われる。もちろん古代においてはそうではなかった可能性もあるにはあるけれど果たしてどうであろうか?少しくらいはその痕跡が残っていてもよさそうに思う。
ところで『アマテラスの誕生』(溝口睦子 岩波新書)に、
以上述べてきた高句麗・匈奴・モンゴル・ウィグルの例にみるように、これらの地域では王の権威の源である「天」が、ときに「日」と言い換えられたり、「月」であったり、また「日月」であったりしている。これはあきらかにこれらの地域に固有の、きわめて特徴的な「天」観である。
とあり、俺はそれらの神話について詳しいわけではないけれど、ウィキペディア等で調べる限り、そこにある「日」とは「太陽神」というより「太陽」そのものだ。
日の光が柳花を照らし、柳花が身を引いて逃げても日の光がこれを追って照らし、このようにして柳花は身ごもり、やがて大きな卵を産んだ
その未亡人アラン・ゴアは天から使わされた神人の光を受けて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。
しかもこれらは「日光感精説話」と呼ばれるものであり日本神話のアマテラスにはない。そして言うまでもなく太陽は父であり、アマテラスに相当するのは母の方だ。ちなみにアマテラスの別名「オオヒルメ」は「太陽神の妻」を意味するという説があるのだが、溝口氏はそれを否定している。
このように俺の見るところアマテラスは「太陽」であったり「太陽の妻」だったりして混沌としているのだが、「太陽」としての顕著な行動は「天岩戸伝説」にしか見られない。
そういう点から見ても「天岩戸伝説」を解読することは日本神話の解読にとってとても重要なことだと思われる。
(つづく)
※ なお中国の神話に関して、一口に太陽神といっても、太陽そのものの場合と、そうでない場合があるそうだ。これも重要な点でいずれ書くつもり。