近江幕府

近江幕府(桑実寺など)

大永6年(1526年)、高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、高国と対立していた細川晴元は、三好元長の援助を受けて義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦う。さらに元盛を殺したことで元盛の2人の兄波多野稙通柳本賢治らが高国から離反し、大永7年(1527年)に桂川原の戦いで高国が破れると、実権を掌握した阿波の国人・三好元長細川晴元らが入京。義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れた。

享禄元年(1528年)には朽木稙綱を頼って朽木(興聖寺)に落ち延び、若狭の武田元光らの軍事力を背景に、三好元長らが擁立した堺公方足利義維と対立した。しかし享禄4年(1531年)、高国は中嶋の戦い及び大物崩れで敗れて自害する。

戦後、今度は晴元と元長が対立。そして、天文元年(1532年)に元長が晴元と手を組んだ一向一揆によって討たれた後(享禄・天文の乱)、京都より近江の観音寺城山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移す。それは朽木のときとは違い、奉公衆奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった。

天文3年(1534年)中には六角定頼・義賢父子の後援を得て晴元と和解し、帰京した。しかし、その後も晴元と対立して敗れたのち、和解して帰京するといった行動を繰り返しており、天文10年(1541年)には近江坂本に逃れ、天文11年(1542年)には京都へ帰還。天文12年(1543年)には近江に再び逃れるなどしている。

足利義晴 - Wikipedia


足利義晴は京を脱出して近江に移ったが、これをもって「室町幕府の滅亡」とは普通言わないし、京都に帰還した後の幕府を「第二次室町幕府」などとも言わない。


だとすれば、足利義昭が京から離れ、枇杷庄、興国寺そして備後国鞆に移動したからといって、それで「室町幕府の滅亡」と言えるだろうか?


時代区分として「室町時代」の次に「安土桃山時代」が来るのはいいとして、それと「室町幕府の滅亡」は分けて考える必要があると思う。


※ただし、

永正の錯乱から続く細川氏管領職争いの一端で、大永7年の桂川原の戦いに敗れた幕府軍管領細川高国は、12代将軍の義晴と供に京都を脱出して近江坂本まで逃れた。この時点で、室町幕府の政治機構は実質的に崩壊した。

堺公方 - Wikipedia
という見方あり。