満済の病状

『満済准后日記』応永三十五年正月九日条 - 我が九条−麗しの国日本
を読んでも俺の意見は従前のままであります。しかし、それについて説明するよりも今回は視点を変えて。


そもそもの発端は、
『満済准后日記』応永三十三年三月十三日条 - 我が九条−麗しの国日本
であります。応永三十三年の「馬足形」は本郷和人の解釈では義持だが実際は満済である。ということに俺は同意しました。ただ「馬足形」とは何だということが気になり検索してみると「キンボウゲ」を「馬足形」と呼ぶことがわかり、「キンポウゲ」は毒にも薬にもなるということなので、この「馬足形」と関係があるのではないかと思ったわけです。


俺は本郷氏の「『満済准后日記』と室町幕府」を読んでいないので、この論文の本命が義持の死因であるということは予想もしていませんでした。本郷氏が「肝心の義持の雑熱の記事」とコメントに書いているのも一体何のことだろうと不思議でした。検索すると

13「『満済准后日記』と室町幕府五味文彦編『日記に中世を読む』吉川弘文館 98.11(分類A)   
    『建内記一』足利義持逝去の記の「馬蹄」って何だろう?ていう20年来の疑問が解決したので満足しています。(まさに「ふるへっへんど」です。)
    義持の死因(従来は風呂に入っていたらばい菌が入って死んだ、といわれている)に疑問を呈することも出来たし。

業績一覧
とあり、その疑問が解消したわけです。ただし論文自体は未読であり、義持の死因が結局何だと主張しているかなど詳細は知りません(なお今住んでいるところの県立図書館にも置いてないようです)。しかしながら、義持と考えられていた「馬足形」が満済のものであってみれば、本郷氏の考察は根本的に見直さなければならないものではなかろうかと推察されます。


さて、満済の「馬足形」ですが、満済は義持のように死ぬことはありませんでした。ただ、俺は『満済准后日記』を読んでなく「馬足形」と診断された満済のその後の経過を知りません。俺の都合ではありますが、図書館に行くのも一苦労であり調べるのはだいぶ先になりそうです(前は徒歩で行けるところに住んでたのですが)。「馬足形」が「状態が悪い」ものであれば、その後も日記に何らかのことが書いてあるのではないかと思いますが、そこのところどうなっているのか興味あるところです。


なお、「昔の人の死 (2008-08-06)」の解釈ですが、これは院長さんの解釈というより『足利義持 (人物叢書) 』の著者の伊藤喜良氏の解釈に医師としての見解を付加したものではないかと思われます(これも確認しなければなりませんが)。



「興盛」が「手がつけられないほどの状態になること」というのはそうなのでしょう。しかし、それが悲観的なものではなくて「それ以上悪くなることはない、これから回復に向かうのだ」という診断をしたのだと俺は思います。今でもたとえば発熱を良い徴候だとする見方があるのと同じではないでしょうか?「これからどうなるのか予断を許さないが今はまだ大したことはない」というのであれば「珍重々々」は無いんじゃないかと思います。


また11日の「御傷以外也。是程トハ門跡(満済)ニモ不可有存知云々」と義持が「満済にもわかるまい」と言っているのは、それが予想外の事態であったことを示していると思います。


それと「以外」が「程度が常軌を逸している」という意味だということですが、「常軌」とは「普通のやり方や考え方」のことではないでしょうか?とすれば、「予想を超えて」すなわち「あらかじめ想定された状態よりひどい状態になっている」「軽症だと思っていたら重症だった」で問題ないように思います。「為馬蹄之由申之以外也。」なら「馬蹄」と診断されたことが予想外だという解釈になるでしょうが、「為馬蹄之由申之。而奉療治之処、以外也。」とあるからには、「馬蹄の治療をしたところ」予想外に治らず、久阿弥が診断したところ「疽」だったということでしょう。


つまり、『建内記』的には「誤診」だったということだと思います。「馬蹄」が「疽」になったのではなくて、最初から「疽」であり、わかったときには手遅れだったということでしょう(「疽」とわかっていれば治癒可能だったのかといえば不可能だったのではないかと思いますが。また事実は誤診ではなくて傷から菌に感染したものでしょう。『建内記』は傷については触れてません)。


(追記)
満済准后日記』では7日に「雑熱」を傷つけてしまった。この「雑熱」が「馬蹄」であろうと思います。「馬蹄」自体は軽症であるけれど傷から菌に感染してしまった。つまり「疽」が出来たわけですが、それに気付かず病気は10日頃においても「馬蹄」と「傷」は別個に扱われていた。一方『建内記』は「馬蹄」が傷ついていたことは知らなかった。「馬蹄」であるのに病状は悪化する一方であった。『建内記』にしてみれば、義持は10日には既に「疽」であったものを「馬蹄」と診断したということになるのでしょう。もちろん万里小路時房がそう判断したのではなく、誰かからそう聞いたということでしょう。