民間事故調とマスコミ(その3)

こんなこと書いていると俺が菅直人を擁護しているみたいになってしまう。だがそうではない。それに適切ではない菅直人批判を放置すれば、批判する側にとっても不利な状況ができてしまう。現にネットではそんな流れが一部でできつつある。


今までマスコミ批判を書いてきた。しかし同じマスコミ批判といっても俺の批判は山口浩氏のマスコミ批判と同じではない。俺は同時に山口氏のマスコミ批判の批判もしてきたつもりだ。

この4つのメディアの4つの記事を見比べただけなので確たることはもちろんいえないからあくまで印象論だが、どうもこの「ぞっとした」発言は、菅元首相の責任を強調するためのネタとして使われたということなのではないか。客観的な報道のふりをして、主観的な評価をすりこもうとしているようにしか思えない。で、そのためなら違和感の残る文章をそのまま書いても平気、「ぞっとした」発言の裏付け取材などすっとばしてしまっても平気という乱暴さも兼ね備えているわけで、こうなると別の意味でぞっとせざるを得ない。

H-Yamaguchi.net: 「ぞっとした」にぞっとした話


「裏付け取材」ができるのならばやったほうが言いに決まっているが、必ずしなければならないとは思わない。問題はそこではない。


また「違和感の残る文章」というけれど果たしてそうだろうか?

違和感があったのは、「首相がそんな細かいことを聞くのは、国としてどうなのかとゾッとした」という証言だ。「首相がそんな細かいことを聞くのは国としてどうなのか」という疑問と、「ゾッとした」という感想とがどうもいまいち結びつかない。百歩譲って結びつくとするなら、何かが抜けている。たとえば「首相がいちいちこんな細かいことをやっているのではこの緊急事態において首相が下すべき重要な判断が遅れてしまい最悪の事態が起きてしまうかもしれない」みたいな話が間に入るならわかる。が、それがない。

「首相がそんな細かいことを聞くのは、国としてどうなのかとゾッとした」という文章を読んで、俺はマスコミが報道し、多くの読者が受け止めたのと同じ意味で受け取って何の違和感も持たない。山口氏が違和感を持ったのは事実なんだろうけれど、下村健一氏のツイートで事情が明らかになった現在でも違和感を持った山口氏の読解力が優れていて俺が劣っているとは思えない。「国としてどうなのか」という疑問は既にそれに否定的なものを感じているのであり、そこから「ゾッとした」という感想が出てくるのは自然なことだ。どこもおかしなところはない。


下村氏のツイートの内容が事実だとすれば、確かに報告書の文章には「抜けている」ところがあったわけだが、それが抜けている以上、あの文章を読んで「首相がいちいちこんな細かいことをやっているのではこの緊急事態において首相が下すべき重要な判断が遅れてしまい最悪の事態が起きてしまうかもしれない」というようなことが書かれていなくても、そのような意味で「ゾッとした」のだろうと受け取るのは自然なことであり、違和感を持つようなものではない。


むしろ違和感を持つ方が不思議だとすら思う。