邪馬台国の女王 (その2)

さて本題の卑弥呼は「邪馬台国の女王」か「女王国の女王(倭国連合)」かということだけれど、


倉西裕子氏が

 「邪馬台国の女王」と表現してしまいますと、卑弥呼邪馬台国という一ヶ国の女王であったといったイメージを帯びてしまうことになり、多くの人々が、卑弥呼邪馬台国の女王であると信じているかもしれません。しかしながら、『魏志倭人伝をよく検証してみますと、以下の点から、卑弥呼は、「邪馬台国の女王」ではなく、「女王国の女王」であると表現したほうが、より史実を反映したものとなる可能性が見えてきます。

卑弥呼は「邪馬台国の女王」か「女王国の女王」か
と主張している。


俺もその通りだと思うし、これが歴史・考古学界の共通認識であって、たとえ学者が「邪馬台国の女王」という表現を使っていたとしても、それはわかった上で一般に使用されている表現を使っているのであって、つまり邪馬台国の女王」か「女王国の女王」かという問題は表現の問題だと思っていた。「邪馬台国の女王と書いたっていいじゃないか。そんなに目くじら立てることじゃない」という人達と「それでは誤解を招く」という人達の対立だと思っていた。


ところが、先の
卑弥呼の女王国をあなたの町に誘致しませんか。邪馬台国の時代展が岡山で開催中 - 恵美と嘉樹の歴史ニュース&BOOKウォーキング
の記事にある岡山県立博物館の特別展「邪馬台国の時代−吉野ヶ里から唐古・鍵、纏向まで−」について調べてみようと、岡山県立博物館のページを見ると
ただ今の展示|岡山県立博物館|Okayama Prefectural Museum (注:今日までなので近いうちに消えると思う)

 さて、今回取り上げる弥生時代邪馬台国が日本列島のどこかに存在した時代でもあります。邪馬台国とは中国の歴史書である『三国志』の「魏志倭人伝」に登場する国です。この記述によると邪馬台国は女王卑弥呼により治められ、奴国や伊都国など約30もの国々をまとめていたとされます。その所在地を巡っては多くの論争が繰り広げられ、現在も決着を見ていません。なかでも北部九州と大和がその二大候補地とされます。

と書いてある。


これは表現上の問題ではなくて、明らかに卑弥呼が「邪馬台国の女王」であって、「邪馬台国の女王」が倭国連合の頂点でもあるという意味である。


これを書いたのが誰なのかは知らないけれど。アマチュア研究家のページではなく、県立博物館のページであるからして、おそらくは学芸員であろう。すなわちプロが書いたものであろう。


とすれば、この件に関して学界の認識は共通しているというのは俺の思い込みであったことになる。


では現在の学界ではどちらの説がどの程度の割合で支持されているのか?ということがさっぱりわからないので非常に困惑するのであった。