「白村江の戦い」の過大評価

邪馬台国について本腰を入れて書こうと思っていたんだが、大掃除してたらいつの間にか古い雑誌を読みふけっていたみたいになるのは意思が薄弱な者の常。気になる記事を見てしまったので、一時中断。


『古事記』メモ - heuristic ways

 梅山氏はこう問いかけ、「大山津見神の呪詛は、文武天皇の夭折という歴史的事実の神話化であり、逆にまた、普遍的な人間の死の起源神話の特殊個別的な歴史化である」という推論を導き出すのである。

梅山秀幸桃山学院大学教授がそう唱えているそうなんだけれど、ニニギノミコトはアマテラスの孫で日向国高千穂峰に天降った神だ。すなわちここから地上世界の話が始まる。ニニギの子がホオリ(ヒコホホデミ)、その子がウガヤフキアエズ、その子が神武天皇で現在の天皇家の祖ということになる。この期間は神から人になる過渡期である。そこに天皇に寿命がある理由を記すのは自然なことと思われ「文武天皇の夭折」などを考える必要は全くないだろう。なお「天皇たちの御寿命は長くない」といっても、それは神との比較において「長くない」と言っているのであって、初期には100歳を越える天皇が多数おられる。25歳で崩御された文武天皇の「長くない」とは意味が違うと考えるべきだろう。



それはともかく、本題は「白村江の戦い」である。

 私の考えでは、白村江の戦いとは、いわば当時の「世界戦争」(唐・新羅連合軍vs百済倭国連合軍)であり、そこでの決定的な敗北が倭国の支配層にトラウマ的な傷を残し、「私とは誰か」、「私がいまここに存在している」意味や理由とは何かという深刻な問いをもたらしたのだと思う。それに対する答えが「日本」という国家プロジェクトであり、「日本がいまここに存在している」ことを内外に知らしめる自己意識の昂揚だったのではないか。

このような主張は良く見かける。いつ頃からあるのかは知らないが、90年代あたりから良く見られるようになって現在でも「流行」している考えだ。90年代あたりから日本の歴史を国内だけで考えないで国際的な視点で考えるべきみたいな論調が目立ってきたように思う。


「国際的」とは当然この場合は中国・韓国との関係が重要だということだ。歴史以外に目を向けても、このあたりから中国・韓国に対する関心が強くなってきたように思う。すなわち現在の問題と歴史の問題が同時に同じ関心を持ち出したということだが、おそらくこれは偶然ではないだろう。「中立的な歴史観」などというけれど、実際のところはその時代の空気に影響されているのは疑いのないところだ。上に「流行」と書いたのもそれを踏まえて書いている。


もちろん日本史を国際的な視点で考えるのは重要なことだ。けれど、そればっかりを見ていると、これまた偏った歴史観に囚われてしまうことになりかねない。ましてや自分が特定の歴史観で見ているという自覚が無い場合は危険であろう。


七・八世紀の日本において白村江の戦いは重要な影響を及ぼしたというのは確かであろう。しかし過大評価されすぎではないかという思いが俺にはある。他にも日本に重要な影響を及ぼしたものは多数あるだろう。中でもとても大切なものが「白村江の戦い」とは逆に過小評価されているのではないかという思いが俺にはある。しかも、それも「国際的」なものであるはずなのにである。


それは何かといえば「仏教」である。


いや、仏教なら当然七・八世紀の日本の歴史を考える上で重要だと誰もが認識していることだと言うに違いない。仏教が日本に与えた影響というのは日本史研究で確かに重要なテーマとしてあるけれど、では大化の改新壬申の乱天武天皇の「天皇」の称号や、「日本」という国号に仏教がどのような影響を与えたのかということがどの程度言及されているのだろうか?ここでいう影響とは、日本の史料に仏教の経典のここが使われているとかいうことではない。また天皇や朝廷の行事に仏教の影響が見られるという程度のことでもない。「白村江の戦い」が日本の歴史に影響を与えたというのと同じような意味で、仏教が日本で広がることによってどのような影響を与えたかということだ。


それは現在考えられているよりも遥かに大きな影響を与えたのではないだろうか?白村江も大事かもしれないけれど、仏教の影響ももっともっと考えてみる必要があるよねと俺は常々思っている。