嗚呼宮台真司(その4)

麻生発言については既に同じことを他の記事で何度も繰り返し書いているので他のことも書いてみる。


安倍氏の発言について。

安倍総理への宮台コメント】(宮台発言から起こされた部分)

首都大学東京宮台真司教授(社会学)は「近代憲法は、市民が統治権力に、こうしろ、するな、と命令する。憲法という名前だけなら、聖徳太子の『十七条の憲法』もあるし、今の中国にも憲法はあるが、近代憲法ではないので立憲体制と呼ばない」と指摘する。

話題が立憲体制下の改憲草案だから、問題なのは近代憲法としての出来。安倍首相の回答が意味不明なのは、近代憲法とは違う憲法の話をしているためだ。

ちなみに安倍首相の説く「王権を縛る憲法」はあったのか。王権の制限といえば一二一五年にイングランド王国で制定されたマグナ・カルタ(大憲章)。だが宮台教授は「聖職者や貴族など高位身分(等族)間の牽制を目的とした等族議会が、等族内の相対的優越者に過ぎない王の課税を牽制すべく設けた合意で、市民を欠くから憲法ではない」と言う。

王がいて憲法も存在するといえば「立憲君主制」。だが「君臨すれども統治せず」の立憲君主制は、王権(王による統治)ではなく、安倍首相の「王権を縛る憲法」に当てはまらない。結局、安倍首相が何を念頭に話していたのか不明だが、「意図を推測しても無意味で、教養ある外国の政治家がどう受け取るかだけが問題」(宮台教授)

宮台教授は「米国政府は政治家の発言履歴を徹底分析し、人格と力量を推し量る。無教養な発言で、米国は『こんな政治家とそれを選ぶ日本国民は信用できない』と日本人を見下して介入を強め、日本の対米従属化が進むだろう」と懸念する。


安倍氏の発言は朝日新聞によれば

 安倍氏 立憲主義には確かに、憲法は権力を縛るという側面がある。しかし、権力をすべて縛るものであるという考え方は王権の時代、専制主義的な政府に対する憲法という考え方だ。いまは民主主義の国家だ。民主主義国家である以上、権力を縛るものであると同時に、国の姿について書き込んでいるものだと私たちは考えている。(自民党案は)国民主権基本的人権、平和主義は現行憲法昭和憲法とかわっていない。(自民党案では)いくらでも基本的人権を制限できる、というのは明らかに間違った読み方だ。

というものだ。特に問題なのは

立憲主義には確かに、憲法は権力を縛るという側面がある。しかし、権力をすべて縛るものであるという考え方は王権の時代、専制主義的な政府に対する憲法という考え方だ。

だ。


そもそも安倍氏は「王権を縛る憲法があった」などとは言ってない


なんて書くとまた都合の良い解釈をしているとされるんだろうが、安倍氏は「考え方」と言っており、さらに「王権の時代、専制主義的な政府に対する憲法という考え方だ」と言っている。「憲法という考え方だ」であって「(実在した)憲法の考え方」とは言ってない。それを勝手に脳内変換してるのは宮台先生の方だ。


安倍氏が言っているのは、憲法における縛る対象となる「権力」をかつての王権の時代における政府と同じものとみなす考え方』という意味でしょう。


さて、民主主義において「権力」を持つのは一体誰でしょう?そんなことは小学校で習うことですね。「国民」です。「人民の人民による人民のための政治」ですね。


統治する方も統治される方も「人民」であって、「王」と「人民」の関係じゃない。「王」という他者ではなく、自分達で自分達のことを決める。そこが王政と違う。こんなこと宮台先生に説明することじゃないけれど…


もちろん、それで全てがうまくいくというわけじゃない。人民による政府が人民を抑圧するということが起きる。王政だろうが民主政だろうが権力は権力なのだ。ということはできる。


しかし、人民を抑圧する政府は人民が選んだものだ。外から来たものじゃない。それを王政と同じようにみなす。いわゆる「お上意識」というものが日本人に蔓延していると安倍氏は認識し、その認識を変えるための憲法改正という考えを述べているのではないかと俺は思いますね。


憲法改正すれば、日本人の意識が変わるのかといえば、そんなことはないのではないかと思うけれど。