{疑問}作者の気持ち

歴史家が作者の気持ちを考えるとこうなる
というのが人気記事になっている。日付を見ると去年の11月20日で何で今になって注目されているのかはわからない。

「文系は永遠に作者の気持ちでも考えてろ」という煽りがあるので。文学系と歴史系ではこれほどまでに違います。

Q:『小右記』(藤原実資[957-1046]の日記。時代的には藤原道長[966-1028]と同世代)の長和三年(1014)二月七日の条には、「(鎮守府)将軍の(平)惟良が馬二十匹、砂金、絹、布などを道長のところに贈り物として持ってきて、その贈り物を一目見ようと見物人が道に列を作った。田舎の狼ののような者が財貨の力でまた将軍になろうとは、悲しいことだ」という記述がある。このように書いた作者の気持ちと、そのように考える理由を答えなさい。

A:小右記の前後の部分には「受領(国司。今で言うところの県知事が近い)が贈り物をしてきた。感心なことだ」という記述が多くある。たとえば長和二年正月には「藤原経通丹波守になった土産を送ってきた」などの記述があり、実資も地方官からの贈り物には決して否定的ではない。にもかかわらず問いのようなことを記述した気持ちは「惟良が道長には贈り物をしたのに自分のところには贈り物をしてこない、その態度が気にくわない」である。


さて、人というのは常に合理的に行動するわけではない。Aがやることは肯定的に受け止めるのに、Bがそれと同じことをやると気に入らないということは普通に見られることだ。ましてこの場合は「全く同じ」ではない。藤原実資には平惟良(正しくは維良だと思うが)という人物が「田舎の狼ののような者」にみえている。しかも維良は「財貨の力でまた将軍になろうと」しているように実資は受け取っている(少なくとも日記上では)。そうであれば、第三者には同じことをしているように見えても、実資にとっては両者に違いがあるように見えるということは十分有り得ることだ。同様の事例は現代にも溢れかえっている。


もちろん「自分のところには贈り物をしてこない」という「気持ち」がある可能性も否定できない。しかし、その「気持ち」を本人が自覚しているとは限らない。


というわけで、可能性としては
1、日記に書いてある通り、実資は惟良の猟官活動が気に入らないのでそれをそのまま書いた。地方官も同じことをしているけれど彼の目には同じものだとは映らなかった。
2、自分に贈り物がないのが気に入らないが、それをあからさまに書くことが出来ないので婉曲的に批判した。
3、本当は自分に贈り物がないのが気に入らないのが原因だが、実資自身がそのことに気付いてない。
などがあろう。


「表の気持ち」もあれば「裏の気持ち」もある。これは歴史学陰謀論がはびこる原因の一つでもあろう。たとえばある史料について「○○に都合の良いように書かれている」などという主張をよくみかける。そもそも本当にそうなっているのか疑わしいものも多々あるが、たとえ結果的に都合の良いものになっていたとしても、それが「意図的」にそうなったとは限らない。立場によって物の見方は異なるのであり、意図的に改竄したりしなくてもナチュラルにそうなることは十分有り得る。それも「奥深いところにある気持ち」が影響しているということは可能かもしれないが、それを単に「気持ち」と表現してしまうのはあまりにも大雑把すぎるのだ。


※ これを文系・理系議論に絡ませるならば、人間をある刺激を与えれば同じ反応がある物質のように捉えているという点で理系的思考、また「気持ち」という大雑把な定義で説明しようとするところが文系的思考ということができるかもしれない。もちろん本当の文系・理系がそのようなものであるとは思わないが。


(追記)
上は原文を見ないで書いたのだが、原文を見ると「狼戻輩」とある。それを「田舎の狼ののような者」と訳しているのだが、「狼戻」とは

1 欲深く道理にもとること。
「常に―の心を懐(いだ)きて」〈将門記
2 乱れていること。散らかっていること。狼藉(ろうぜき)。
「公家は日を逐って―せしかば」〈太平記・二四〉

ろうれい【狼戻】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
という意味。


また「また将軍になろうとは」とは「追補を受けた罪人が今度は高い位を得たのみならず、さらに将軍になってしまうとは」という意味であると思われ、上の訳では意味不明。
平維良 - Wikipedia


また原文に「為預将軍任符」とあり、将軍に任命されたお礼として道長に贈り物をしたのだと思われ。実資が将軍任命のために尽力したのに贈り物がないことを不満に思ったのならこうは書かないだろうし、尽力していないのなら贈り物がないのも当然のように思うのだが…