織田信長と前田利家(その4)

次に

利家其頃まで大髭にて御座候、髭を御取り候て、其方稲生合戦の刻、十六七の頃、武蔵守内宮居勘兵衛といふ者の首を取り侯刻、我等十一になり、合戦初に候、其首を、犬忰なれども、此手柄を見よと、我等馬の上にて振り候へば、味方気を得て、只七八百計りにて、三四千の人数を押崩し候、其如く各々手柄故、斯様に我等天下を静め、万事成就し候由、御意にて、

これは稲生合戦での利家の活躍を述べている。この活躍があったからこそ今の信長があるのだということ。上の文にあるように、信長軍は7〜800人、対する信行軍は3〜4千人という圧倒的な兵力差であった。信長大ピンチである。その時に利家は劣勢の信長に従っただけでなく、宮居勘兵衛という者の首を取り、それが信長軍勝利のきっかけになったのだという。なお、この合戦については『信長公記』によると、信長が大音声を発すると、敵も身内であるから信長の威光に恐れて逃げ崩れたという。利家の話が事実なら、信長の「大音声」とは、利家が宮居勘兵衛の首を取ったことに関係しているのではないかと思われ。


しかし、信長がこの場でそれを語ったのは、それだけの意味ではないだろう。ウィキペディアの説明を見ればわかるように、この合戦において、安土城の接待で利家の上座にいた柴田勝家と、いたであろう林秀貞は、信長の弟の信行(信勝)の側にいて信長と敵対していたのだ。
稲生の戦い - Wikipedia


つまり、ここでも「利家と他の武将の違い」が重要なのだと考えられる。そのことは、

右合戦の刻は、柴田殿は武蔵守殿衆になる。

と書いてあることからもわかる(武蔵守=信行)。それはこれを書いた人物が利家が何を言いたかったか理解していたということでもある。



ところで、乃至政彦氏は

利家其頃まで大髭にて御座候、髭を御取り候て、

について「其頃」というのは利家の若い頃という意味で、「大髭」というのは「大髻(おおたぶさ)」の間違いで、「髭を御取り候て」とは「大髻を取って月代を入れて元服した」という意味だという説を披露している。


しかし、この文章全体のなかで、そんな話をする必然性は全くないのであって、これは普通に「利家はこの安土城での接待のときには大ヒゲであったのだが、そのヒゲを信長様が手に取って」と解釈すべきだろう。


で、信長が利家のヒゲを手に取ったからといって、それで二人の間に関係があったなんてことを妄想するのは考えすぎというもので、単に親愛の情を示しただけの話である。ここでも信長は他の武将にはそんなことをしないということを意味しているのだろう。


(つづく)