「瀬兵衛、骨折り」」

軍師官兵衛」の再放送を見ながらウィキペディアで関連項目を見ていたら「中川清秀」の記事に

山崎の戦いの後、陣中見回りを駕籠で行った秀吉は、清秀の陣で「瀬兵衛、骨折り」と言ったが、清秀は「猿め、はや天下を取った気でおるわ」と大声で言いかえし、秀吉は聞こえぬふりをして通り過ぎた、という逸話がある。

中川清秀 - Wikipedia
と書いてあるのが目に留まった。


何が気になったのかというと、清秀が秀吉のことを「猿」と表現しているところ。


秀吉が「猿」と呼ばれていたというのは有名な話だが、「太閤記」などでは秀吉の幼ない頃のあだ名であって、成人してからそう呼ばれたということではない。もちろん「太閤記」が信じられるかという問題はあり後世の付会かもしれない。一方、朝鮮使節は秀吉の顔が猿に似ていると記録しており、また関白就任後の落書に『まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白』とある。
豊臣秀吉 - Wikipedia


(あと信長朱印状に「猿帰候て」とあるのだが、この「猿」を秀吉のことだとする説が広く受け入れられているけれど、これはかなり疑問がある)


で、中川清秀が秀吉のことを「猿」と呼んだというのが事実なら、これについて考えるのに重要な情報になるわけだ。


しかし、ウィキペディアには出典がない。


というわけでネットで「瀬兵衛、骨折り」をキーワードに探したのだが、これについて書いた記事は多いけれど出典を書いているものは見つからない。


その中で信用できそうなのは、菊池寛の「山崎合戦」(「日本合戦譚」文春文庫)。
菊池寛 山崎合戦

 多分後世の仮作であろうが、光秀も死ぬまで順逆を気にしていただろう。戦争が済んだ時、三七信孝は中川瀬兵衛に近寄って、その戦功をねぎらったが、秀吉は輿(こし)に乗っていながら、「瀬兵衛骨折骨折」と云ったので中川は「あいつ、はや天下を取った気でいやがる」とつぶやいたと云う。

ただし、「猿め、はや天下を取った気でおるわ」ではなく「あいつ、はや天下を取った気でいやがる」だ。


さらに遡ると「増補點註國史略」(明治10)に

秀吉,輿中自り呼で曰。「瀬兵衛,骨折(骨折は勞を慰する俗語)」と。清秀,其の尊大を怒る。

正親町天皇(日本國史略)
とある。「其の尊大を怒る」であって、何と言ったかは書かれていない。


では、「あいつ、はや天下を取った気でいやがる」は菊池寛の創作だろうか?その可能性もあるけれど「増補點註國史略」にはさらに出典があるだろうから、そこに何か書かれているかもしれない。


しかし、その出典までは調べられなかった。