『御伽草子』の「浦島太郎」の解読

三浦教授によると、元来のあらすじは、浦島が竜宮城から故郷へ帰ってくると、700年の歳月が過ぎたことを知ってしまい、途方に暮れる。そんな浦島の手には、持ち帰ってきた玉手箱があった。実は、これには浦島の魂が封じ込められており、浦島は老いない体になっていたのだ。そこには、乙姫の「浦島に再び会いたい」との思いが込められていたのだという。

そのことを知らない浦島は玉手箱を開けてしまい、鶴に生まれ変わって永遠の命を与えられた。鶴になった浦島は、亀に姿を変えた乙姫と再会し、長く愛しあったそうだ。

「浦島太郎」にカットされた真の結末 永遠の命もつ鶴に生まれ変わる - ライブドアニュース


俺は常々三浦佑之氏の研究アプローチについて好意的な印象を持っているんだけれども、しかしこの解釈はどうにも納得しかねる。


まず常識的にいって「開けて見るな」と言われた玉手箱を開けてみたら悪いことが起きるのが普通でしょう。しかも「明けて見るなとありしを明けにけるこそ由なけれ」とまで書いてあるんだから疑いの余地がない。


そしてその悪いこととは何かといえば「鶴に生まれ変わって永遠の命を与えられ」「亀に姿を変えた乙姫と再会し、長く愛しあったこと」が悪いことのはずがない。もしそうならそれこそ『御伽草子』の「浦島太郎」は無茶苦茶な話だということになってしまう。


これはそんな話ではない。物語の最後は「めでたかりけるためしなり」で締めくくられているけれども、これは「浦島太郎は丹後の國に浦島の明神と顯はれ、衆生濟度し給へり。龜も同じ所に神とあらはれ、夫婦の明神となり給ふ」のがめでたいのである。


すなわち、亀姫を助けた浦島は亀姫と夫婦になり「幸福」になったけれど、その後「不幸」が訪れ、さらに一転して「めでたく」なったということだ。


では、その不幸とはなにかといえば「亀姫との別離」である。これは『丹後国風土記』の方にはそれをはっきりと書いてあるけれども、『御伽草子』も同じだと考えてよいと思う。


龍宮城で別れて後、再び夫婦が出逢ったのは「夫婦の明神」になったときである。


そして、浦島太郎と亀姫が神になったのは、それぞれ二人が死んだ後のことだと考えられる。もちろん浦島が先に死んで先に神になったのだ。


浦島がいつ死んだのかは解釈が難しい。俺は玉手箱を開けたときに死んだのだろうと思う。ただし現在有力な鶴になったという説を採用すれば、鶴の死が浦島の死であり、残り300年を生きたということになる。


しかし亀姫の方は「亀は万年」だけに長生きだ。「萬代を經しとなり」とあり1万年を生きたことになる。もっとも浦島と暮らしていたときの亀が何歳だったのかはわからないけれど、それでも浦島が死んでからも相当長く生きていたのだろう。亀姫がまだ若かったら9000年以上生きた可能性もある。そうなると浦島太郎の物語は神武天皇の時代よりも前の神代の時代のことということになるけれど、『丹後国風土記』などとは違って、いつの頃か書いてないので問題なかろう。


御伽草子』の「浦島太郎」は「結婚」→「別離」→「神となっての再会」というのが骨格であり、それを踏まえて細部を解釈すべきであろう。


そのように考えれば「情ふかき夫婦は二世の契りと申すが、寔にあり難き事どもかな」とは、「情け深き夫婦は二世の契りと言うけれども、(情けが深くても)実際には難しいことだなあ」という意味であり、現代的な意味の「ありがたい」では全く無いのであり、浦島と亀姫とが再び出会うことの難しさを述べているのである。


しかしながら「只人には情あれ、情のある人は行末めでたき由申し傳へたり」とあり、それは別離した夫婦が最終的には神となって再会したことを述べているのである。再会するまでには何千年もの時が流れたのだ。


そう解釈するのが一番すっきりする。


なお、解釈が人によってわかれている「浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす」だけれども、これを「鶴になった浦島が蓬莱の山(龍宮城)で亀姫と愛をなした」といったような解釈はできないのであるが、だからといって「蓬莱の山(≒龍宮城)で仙人の仲間になった」という解釈もまたすっきりしないものがあり、なかなか難しいのだけれど、その他諸々のことを考えると、やはり浦島は玉手箱を開けて鶴になったのではなくて、「浦島は鶴になりて、虚空に飛びのぼりける折」の「折」は「そもそも」ではなく「折」が正しく『御伽草子』にそんな描写はないけれども、浦島が鶴になったのは亀姫と出逢ってすぐにあった出来事なのではないかと思うのである。しかし、ここはまだまだ考える必要がある。


(参考)

さて浦島太郎は一本の松の木陰にたちより、呆れはててぞゐたりける。太郎思ふやう、龜が與へしかたみの筥、あひ構へてあけさせ給ふなと言ひけれども、今は何かせむ、あけて見ばやと思ひ、見るこそ悔しかりけれ。此の筥をあけて見れば、中より紫の雲三筋のぼりけり。これをみれば二十四五のよはひも忽ち變りはてにける。
さて浦島は鶴になりて、虚空に飛びのぼりける折、此の浦島が年を龜が計らひとして、筥の中にたゝみ入れにけり、さてこそ七百年の齡を保ちけれ。明けて見るなとありしを明けにけるこそ由なけれ。
君にあふ夜は浦島が玉手筥あけて〔筥を明けてと夜が明けてとをかけた。〕悔しきわが涙かな
と歌にもよまれてこそ候へ。生あるもの、いづれも情を知らぬといふことなし。いはんや人間の身として、恩をみて恩を知らぬは、木石にたとへたり。情ふかき夫婦は二世の契りと申すが、寔にあり難き事どもかな。浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす〔仲間となつて居る。仙人の仲間であらう〕。龜は甲に三せきのいわゐをそなへ〔甲に三正(天地人)の祝ひを備へか〕、萬代を經しとなり。扠こそめでたきためしにも鶴龜をこそ申し候へ。只人には情あれ、情のある人は行末めでたき由申し傳へたり。其の後浦島太郎は丹後の國に浦島の明神と顯はれ、衆生濟度し給へり。龜も同じ所に神とあらはれ、夫婦の明神となり給ふ。めでたかりけるためしなり。

浦島太郎(校註日本文學大系)