誤った擁護が弱者を追い込む

例の件は、批判する側にもおかしなことを言う者もいるが擁護する方にもおかしなことを言う者がいる。もちろん、おかしなことを言う人がある程度いるのは当たり前のことで避けようがない。そもそもどんな問題化もわからず「祭り」に参加して日頃のストレスを発散している人間だっている。だが、それにしても擁護する側に奇妙な論理が多すぎる。


まず大前提として「貧困」とは「貧しくて生活に困っていること」という国語辞書的な意味の「貧困」と

6人に1人。厚生労働者がまとめた、所得がある一定の水準に満たない貧困状態にある子どもの割合です。

子どもの貧困 学生たちみずからが現状訴える | NHKニュース
とある「貧困」は別だということを理解しなければならない。これが理解できないでまともなことが言えるはずがない。後者は「一定の水準」とあるように明確に数値が決められている。前者のような感覚的なものではない。この程度のことを本当に理解できていないのか、わざと混同しているのか、すごくレベルの低い話だ。


もちろん前者の「貧困」も「貧困」である。彼女が散財をやめて家計の足しにすればそれなりに生活が楽になるけれど、それでも定義上の貧困者よりましという程度だろう。そして、その場合アルバイトで家計を支える女子高生にランクアップするけれど、そういう状態を人は「貧しい家庭」とみるだろう。バイト代足せばそこそこ暮らせてるんだから、何の問題もないとは思わないだろう。


それで思うのだが、あの高校生が貧困でないと指摘することは、前者の意味としてでまで否定されるように感じて、それでわけのわからない擁護をしているのではないだろうか?


しかしそれは間違った擁護である。なぜ間違っているかというと、まさに上に書いた理由によるものである。なぜなら彼女が厚労省のいう「貧困」でなかった場合(まだ確定していないがその可能性が非常に高い)、政府が6人に1人の貧困状態にある子どもを援助することになっても、彼女(および彼女と同じ境遇の子ども)には何の恩恵ももたらされない可能性があるからである。


何しろ6人に1人の子どもが貧困状態にあるなら、最優先で救うべきはこの子ども達である。しかも6人に1人なのだから、これだけで相当の税金を投入しなければならない。さらにその上で彼女のような子どもも救うことに国民の同意を得るのは困難だということが容易に予想できる。無論「救うべきだ」と「べき」を主張することはできるだろうが実現性が遠のくことは明らかだ。


しかし俺には本当に切羽詰まった子どもが6人に1人もいるとは思えない。俺は昨日書いたような理由、定義上は貧困層で実際に豊かではないにしても、そこそこの生活をしている子どもがいると思う。一方で貧困層には含まれていなくても生活の厳しい子どももいると思う。子どもじゃないけど単身者の貧困線は122万だから、可処分所得130万で預貯金無し賃貸住宅に住む独身者は貧困に定義されてないのだ。感覚的に見れば彼ら彼女らはどう考えても貧困者であろう。


そして、彼らは厚労省の定義では貧困層に含まれないがゆえに、経済的に苦しいだけではなく、精神的にも「お前は貧困ではないのだから」と追い詰められかねないのだ。


だからといって、厚労省の定義による貧困でないものを、そうであるかのように偽装すればいいというものではない。そんなことをしても何の解決にもならない。それは貧困の定義に当てはまらない生活困窮者の存在を逆に見えなくする


NHKのやらかしたことは、(まだ確定したわけではないが)まさにそういうことであり、NHKまたは彼女を擁護するような主張の中にはそれと同等のものが多数あるのである。