貧困を廻る貧困な言説(3)

「貧しいのに贅沢なんて」と言わず、貧しいからこそ贅沢したい人への理解を | 黒岩揺光

まず、政治家へのバッシング。今回の問題の根幹はNHKの報道の仕方にあるのに、それに対して疑問を呈する政治家を、支援者や活動家は「貧しい人の敵」に仕立て、「高い給料もらっている政治家に貧しい人の気持ちはわからない」などと感情論を先行させた。「貧困」の報道はとても複雑で難しく、視聴者が「自己責任論」を追及する余地は常にある。

にもかかわらず、NHKは、「希望の進学先にいけない」、「エアコンがない」、「パソコンの代わりにキーボード」、「アルバイトの母親との母子家庭」という曖昧な指標で、女子高生の「貧困度」を示した。母親の具体的な職業や月収や家賃など、収入と支出を数字で出すなど、より客観的にできる方法はいくらでもあった。

女子高生がその開示を拒むのなら、初めから取材するべきでない。これによって、ネットで彼女のプライベートが暴露され、彼女を危険にさらしたNHKの責任はあまりにも重い。

これは全くその通りだ。やっと納得できる主張に出会った。このような正論が出てこないのが日本のジャーナリズムの貧困なのである

次は「貧しいはずなのに、1000円以上のランチや映画や舞台鑑賞などの贅沢をしている」と女子高生をバッシングする人たち。この日本全体に漂う「貧しいのに贅沢なんて」という雰囲気は、理解しがたいものがある。逆に「貧しいからこそ贅沢したい」という発想があってもいいのではないか。

これもその通りである。誤読する人が出そうな文章だから解説すれば、これはあくまで「貧しいはずなのに」であって、確かに彼女が貧困なのは確かだとみなしながら、こういう批判をする人がいる。人の考えはそれぞれだろうが俺はそういう考え方には同意しない。貧しくても贅沢できる金があるのなら贅沢したって自由だと思う(ただし基本的にはであってそれについて書くと長くなるので略)。


ちょっと「?」と思う所も無いことはないけれど、やっとまともな(というかこれが普通だと思うんだが)記事に出会った。