⇒片瀬久美子さんがスリーパーセルをスーパーセルと空目→しばき隊界隈が片瀬さんを批判→片瀬さん、しばき隊界隈と訣別宣言 - Togetter
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さて、これをどう考えるかだが、そもそもの発端は先の三浦瑠璃氏のスリーパーセル発言騒動にあるわけだ。それは踏まえておかなければならない。片瀬氏はこの件について何度も反論している。たとえば、
ある人がイラついたことを理由に、差別を助長する発言ですらないのに、差別発言だと糾弾され吊し上げられるのなら、誰だって差別者にされてしまいます。
— 片瀬久美子 (@kumikokatase) 2018年2月17日
最後にこれだけ。
— 片瀬久美子 (@kumikokatase) 2018年2月17日
「スリーパーセルをスーパーセルと空目した」という発言に不快な思いをする人がいるから、事前に察して自粛すべきだと言われても…。
これでは「朝日を浴びて気持ちいい」とツイートしても「紫外線に弱く日光を浴びることができない人への配慮を欠いた発言」だと糾弾されそうですね。 https://t.co/nDhc8Df8XK
など。
ただ、それを言うならば三浦瑠璃氏についても同じことが当てはまるのである。三浦氏に在日朝鮮人差別の意図はないのに受け手がそう受け取ったのだから(少なくとも本人はそう主張してるし、それで不自然な点はない)。
「それとこれとは話が違う、なぜなら〜」という理屈付けは可能だろう。実際それとこれとは別なのだから、全く同じものでなければ差異があるのは当然で、そんなことは「それとこれ」だろうが「あれとこれ」だろうが何であっても、違うと強弁することはできる。だがそれで誰もが納得できるものではない。ほぼ同じだということも可能だ。
で、この件に関しては
差別の問題は、本人が差別を意図したかどうかに関係がないということが、なぜわからんのかね。そもそも「意図」なんていったら、イジメもセクハラもみんな本人には意図がないで済む。むろんこれは被害者万能ということではなく、無理筋の訴えは退けなきゃ行けない。でも前提はまずこっちなのよ。
— 東浩紀@ゲンロンカフェ5周年 (@hazuma) 2018年2月13日
最近のネットの炎上は全部そうだけど、差別の問題は「する側に差別意識があるかどうか」という話ではなく「受け取る側がどう感じるか」が要諦なのに、ネットだと前者ばかりクローズアップされるため、読者にそのリテラシーが身に付かない。学校教育で幼い頃から粘り強くやらない限り無理なんだろうな。
— 津田大介 (@tsuda) 2018年2月13日
などといった著名人による主張があり、これを肯定するのならば片瀬氏はアウトということになる。よって、この理屈で三浦氏を批判する人が片瀬氏を批判するのは当然といえば当然のこと。むしろ一方を批判して一方を擁護する場合は、それはどんな理屈によるものか、説明もしないでそうすれば二枚舌に見えてしまうことになるだろう。
※ なお東浩紀氏に関しては「むろんこれは被害者万能ということではなく、無理筋の訴えは退けなきゃ行けない」と言ってるけれども、無理筋と無理筋でないものの違いが恣意的に決められてしまえば、結局のところ後都合主義で「それとこれとは話が違う」と上に書いたことと同じになるであろう。
※ 三浦氏への批判を当然のこととして肯定するならば、自分にその意図がなくても批判されることはありえることなんだから、同じことが自分の身に降りかかってきたときに自分だけは例外だとするのは見苦しいことこの上ない。もちろんハラスメント問題で「悪意はなかった」では通用しないことはある。しかしそれを適用させるには十分過ぎるほど慎重で厳格でなければならないのではないか。
もちろん俺の場合は、そもそも三浦氏の発言が差別を助長するものとして批判されていることに全く同意できないわけで、当然片瀬氏に対するバッシングもその件のみについて言えば同情しないわけではないけれど、片瀬氏とて三浦氏批判については知ってた(言及もしている)のであり、であるならばなぜ三浦氏が批判されているのかということも片瀬氏なりに理解してたはずだと思われるのに、自らが叩かれた際の反応を見ていると、どのように理解してたのか疑問符が付くようなところがあると思うのである。