『将門記』託宣のド素人の素朴な疑問(その2)

(その1)

八幡大菩薩使。奉授朕位於蔭子平將門。其位記、左大臣正二位菅原朝臣靈魂表者、右八幡大菩薩、起八万軍、奉授朕位。今、須以卅二相音樂、早可奉迎之。」

将門記 群書類従本
この文の意味するところが、どうもよくわからない。


俺が漢文・古文苦手だからわからないのだろうと色んな解釈をしてみたのだけど、どうしてもすっきりしない。


で、そもそもこの巫女の託宣そのものが変なのではないか?なんてことを思ってしまう。漢文・古文苦手のくせにこういうことを言うのは我ながら身の程知らずだとは思うけれど。でも前の記事で紹介したようにおかしいという指摘があるわけだし。


問題はどこがおかしいかということ。

 このあたりから段々と主語がはっきりしなくなってきます。
 それまでは八幡大菩薩と朕とは同じだったと思うのですが、この文からは『八幡大菩薩』と『朕』は同じとは思えないような書き方です。

 もっとも巫女は神がかり状態なのですから、深く考えてもしかたがありません。それと八万の兵という意味もわかりません。

将門2


「神がかり状態」だから意味のわからないことを言っているのだろうか?その可能性はある。ただ、これで説明はつくけれど話がそこで終ってしまう。他の可能性はないだろうか?


俺は「朕位」が問題なんじゃないかと睨んでいる。


「朕位」は「朕の位」であり、すなわち「我(吾)の位」ということだ。「朕」は天子の自称として用いられるので「朕の位」=皇位ということになる。

八幡大菩薩使。奉授朕位於蔭子平將門。其位記、左大臣正二位菅原朝臣靈魂表者、右八幡大菩薩、起八万軍、奉授朕位。今、須以卅二相音樂、早可奉迎之。」

普通に読めば「八幡大菩薩」が自分を「朕」と呼んでいると理解するしかない。ただし「朕」は天子の自称に使うものだ。なぜ八幡大菩薩が天子なのか?


なんてことを書くと「八幡神応神天皇と同一とされることも知らないのか」と馬鹿にされるかもしれないが、もちろんそれは知っている。ただし以下のことに留意しておく必要がある。

八幡神応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[3]。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇八幡神と習合し始めたと推定される[3]。

八幡神 - Wikipedia


将門記』には八幡大菩薩応神天皇だとは一言も書いていない。もちろん八幡大菩薩が「朕」と称しているからには『将門記』の八幡大菩薩応神天皇でもあるのだという結論を導き出すことはできる。ウィキペディアにも

「朕」は八幡大菩薩応神天皇の化身である事からの自称。

新皇 - Wikipedia
とある。だが、それは巫女の託宣が変ではないとした場合のことだ。


さらに不思議に思うのは、八幡大菩薩応神天皇だとしても「朕の位」が「皇位」になるものだろうかということ。応神は確かに天皇だけれど当代の天皇ではない。


当代の天皇すなわち朱雀天皇が「朕の位」を授けるというのなら全く不自然ではないが、過去の天皇が「朕の位」を授けるといって皇位を譲るというのは何か不自然だ。だが平将門はこの託宣によって新皇を称したのだから「朕の位」が皇位であることは疑いようが無いだろう。



で、俺がひらめいたのは、この巫女(というか作者)は「朕位」について勘違いしているのではないかということ。


どういうことかと言えば、「朕位」→「朕の位」→「天子である我れの位」→「皇位」という過程をすっ飛ばして「朕位=皇位」と認識しているんじゃなかろうかということ。つまり「八幡大菩薩が我の位を授ける」と言ったのではなくて「八幡大菩薩が『朕位(又の名を皇位)』を授ける」と言っているのではなかろうかということ。


八幡大菩薩が自分のことを「朕」と称したり「八幡大菩薩」と称したり統一性がないように見えるけれど、実は八幡は自己を「八幡大菩薩」と称しているのみであり「朕位」は「われの位」という意味で使っているのではないとして、託宣を読み返してみると、(割と)すっきり読めてしまうのだ。
(追記)「朕」を「我」の意味で使ってないとすると、八幡が自分を八幡大菩薩と呼んでいるというより「八幡の使い」が呼んでいると解釈した方が自然かもしれない。


もしこの仮説が当っているとしたら、この託宣の意味、そして『将門記』の作者や性格そのものも再検討する必要が出てくるだろう。


なんて大それたことを思うのであった。どうせ間違っているんだろうけど…


※ そういえば「新皇」は自分のことを「朕」ではなく「将門」と称しているのであった。作者が「朕」の意味を理解していない傍証になるのではなかろうか。