科学と非科学の間(2)

高松高裁の事例は、既に乳房温存療法は確立された療法であったものの、問題になるのは控訴人の場合、非侵潤性乳管癌であり、この場合の乳房温存療法は確立したものではなかったというもので、構図としては同じ。被控訴人丙山(A)は、この治療法は「選択可能な治療方法ではなかった」のであり、さらに、「適応可能性が低かった」どころではなく「適応はない」と診断したと主張している。つまり、丙山教授の側から見れば、平成13年判決を認めた上で、それでもこれはあり得ないことなので説明する義務はないと認識しているわけだ。それに対し高裁は、「上記判断は不適切であったとはいえず」「適応である可能性は低かったものと認められる」というものであるが、「適応がなかったとまでいうことはできない」と判断した。


私見ではここが最も重要なポイントだと思われる。非常に重要なので「判例タイムズNo.1235」から引用する。

イ 被控訴人徳島大学ら4名は、原判決は、被控訴人医師らの診断は適切であり、控訴人の乳癌は乳房温存療法の適応である可能性が低かったものと認められる旨判示するが、被控訴人医師らは、控訴人の乳癌については乳房温存療法の適応はないと診断したものであって、同療法の適応可能性が低かったと診断したものではないし、客観的にも控訴人について同療法の適応はなかったのであるから、この限りにおいて原判決の上記判示は相当ではない旨主張する。
 乳房温存療法を積極的に実施している被控訴人医師らが、同療法による部分切除では癌が残存乳房に遺存する可能性が高かったため、同療法の適応がないと判断したこと及びそのこと自体が不適切であると認められないことは前示のとおりであるが、前記のとおり、本件手術当時は、未だ前記「乳房温存療法ガイドライン(1999)」が策定されていなかったため、乳房温存療法を実施していた医療機関では、それぞれ、患者の希望のほか、腫瘤の大きさ、腫瘍の乳頭からの距離、切除標本の断端陽性・陰性、多発性病巣の有無、広範囲の石灰化(乳管内進展)の有無などの項目を考慮して、適応基準を定めていたものの、その適応基準は医療機関によって相違があり、また、自らの適応基準からは適応外と思われる症例では、乳房温存療法を実施した場合の危険度を説明した上でこれを実施している医療機関も、少数ながら存在した、というのであるから、控訴人の乳癌は乳房温存療法の適応である可能性が低かったというにとどまり、適応がなかったとまでいうことはできない。
 したがって、被控訴人徳島大学ら4名の上記主張は採用することはできない。

「適応がなかった」「適応である可能性が低かった」が「適応がなかったとまでいうことはできない」では大違いだ。被控訴人も、平成13年判決を否定するものではないと主張しているので、「適応がなかった」が認められなければ、極めて不利になるのである。


とすれば、この判決を不服とする場合、問題は裁判所の「適応がなかったとまでいうことはできない」という判断が適切だったのか否かということが、議論の中心課題になるべきだ。いうまでもないが、科学に「絶対にありえない」はない。であるから、どんなトンデモ医療であっても、「絶対に治らないとはいえない」ということが可能になってしまう。批判者はそれを恐れているのだろう。だが裁判所は無条件でそれを認めているわけではない。であるから、争点は裁判所の示す条件が適切か否かということになる。これが考えれば考えるほど難問で、「科学とニセ科学」の問題でも、俺の趣味である「歴史」でも盛んに議論されている。


絶対に正しいものがあれば世の中楽であるが、残念ながら現代はそうではない。しかも、そうであるにもかかわらず、裁判所は判断しなければならないし、科学者・教育者は「水伝」を学校教育に取り入れることの是非についての判断を求められる。困難な問題だけど、それが現実なんだから、それに立ち向かっていくしかない。


と思いますね。