地球温暖化と「空気」の研究

山本七平の『「空気」の研究』には、NOx(窒素酸化物)規制の話が出てくる。

そして何年か後に、NOxが無害だということになり、ヨーロッパははじめから何の規制も行なわず、アメリカも方向転換しているのに、日本だけなぜこんな自滅の道をつっぱしったのか。なぜだれ一人として「NOxは人体に有害だという確証はない」という、アメリカ人が平然といえることを言わなかったのか、と問われれば、その答は結局「当時の空気では、到底そんなことは口にできなかった」「当時の空気としては、ああする以外に方法がなかった」「当時の空気を知らない技術史家や評論家の難詰に対しては答えないことにしている」といった返事になるであろう。もちろんそうなるかならないか、専門家でない私にはわからない。しかし私は北川徹三氏(損浜国立大学名誉今教授)がミニコミ誌「カレント」に書いた論文の「わが国の労働者も含めて、世界各国で、労働衛生上の工場内のNO2の許容濃度が五ppmで、現在各国ともこの値を使用していて不都合はなく、変更する必要は認めていない」という部分を読むと、これが「環境基準一日平均○・○二ppm」の二百五十倍なので、何が何やらさっぱりわからなくなるのである。


俺は化学に無知なんだけれど、
窒素酸化物(ウィキペディア)
を読むと、現在でも「NOxが無害だということ」にはなっていないようだ。もちろん、ここでのテーマは「NOxは有害か?」ということではないので、結果的に有害だったとしても、その結果をもって、この主張がおかしいということになるわけではない。


ところで、この話は、最近の「地球温暖化二酸化炭素犯人説」ときわめてよく似ている。「NOxは人体に有害だという確証はない」は「二酸化炭素地球温暖化の原因だという確証はない」と容易に言い換えることができる。


ただ、違うのは、「地球温暖化二酸化炭素犯人説」を主張しているのが、「日本だけではない」ということだ。これが「空気の支配」だというのなら、それは日本だけが特殊だということではないように思う。


もちろん、その説に対して反論できるのかが重要なポイントだということにはなる。「地球温暖化二酸化炭素犯人説」に関してはネットで検索すれば反論がいくらでも見つかる。「NOx有害説」については知らないけれど、反論ができなかったということはないだろうと思う。これは「言えない」ではなく「言わない」ということだろう。


なぜ「言わない」のかといえば、それは言えば「叩かれる」からだろう。しかし、俺は、「異端の説は叩かれるのが当たり前」だと思っているのである。


俺は前に某元アナウンサーのブログが炎上したときに、それについて書いた。
火中の栗を拾う - 国家鮟鱇


偶然というか、今回、『「空気」の研究』で山本七平福沢諭吉を批判しているのを知り、いろいろ調べていたところ、諭吉がこういうことを言っているのを知った。

試に見よ、古来文明の進歩、其初は皆所謂異端妄説に起らざるものなし。「アダム・スミス」が始て経済の論を説きしときは世人皆これを妄説として駁したるに 非ずや。「ガリレヲ」が地動の論を唱へしときは異端と称して罪せられたるに非ずや。異説争論年又年を重ね、世間通常の群民は恰も智者の鞭撻を受て知らず識らず其範囲に入り、今日の文明に至ては学校の童子と雖ども経済地動の論を怪む者なし。啻にこれを怪まざるのみならず、此議論の定則を疑ふものあれば却てこれを愚人として世間に歯(よは)ひせしめざるの勢に及べり。又近く一例を挙て云へば、今を去ること僅に十年、三百の諸侯各一政府を設け、君臣上下の分を明にして殺生与奪の権を執り、其堅固なることこれを万歳に伝ふ可きが如くなりしもの、瞬間に瓦解して今の有様に変じ、今日と為りては世間にこれを怪む者なしと雖ども、若し十年前に当て諸藩士の内に廃藩置県等の説を唱る者あらば、其藩中にてこれを何とか云はん。立どころに其身を危ふすること論を俟たざるなり。故に昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。然ば則ち今日の異端妄説も亦必ず後年の通説常談なる可し。学者宜しく世論の喧しきを憚らず、異端妄説の譏(そしり)を恐るゝことなく、勇を振て我思ふ所の説を吐く可し。或は又他人の説を聞て我持論に適せざることあるも、よく其意の在る所を察して、容る可きものは之を容れ、容る可らざるものは暫く其向ふ所に任して、他日双方帰する所を一にするの時を待つ可し。即是れ議論の本位を同ふするの日なり。必ずしも他人の説を我範囲の内に籠絡して天下の議論を画一ならしめんと欲する勿れ。

文明論之概略


俺が言いたかったことと同じことを、福沢諭吉が言っていたことに驚いたのであった。