江戸が四神相応だという認識が江戸時代に存在した。それは『落穂集』という史料で確認できる。
⇒落穂集巻1-3内閣文庫(ようこそ大船庵へ)
一問曰、御当地の義ハ四神相応の勝地ニ是有旨(これあるむね)、世上ニ触レ候は弥(いよいよ)其通の事
ニ候や。 答曰、北高南低く東西に流れ有を以て四神相応の地と古来より申
傳候所、御当地ハ其旨に相叶ひ候上ハ四神相応の地と申し候、然(しかれ)トモ天下をもしろしめす
御方の御座所と申ニ至てハ、繁昌の勝地と申場所ならでハ召べからざるよし、其子細ハ
公方将軍たる御方ノ御座所へと天下万民入込申義ニ候ハハ、其所え在郷の者計(ものばかり)ニてハ
事の用足不申(ようたりもうさず)、海川の運送自由にして諸国の荷物等も潤沢に寄あつま
らずしてハ相叶ざるに依て、慶長年中
東照権現様天下御一統被遊(あそばされ)候、相かわらす御当地を以(もって)御座城と被仰出(おうせだされ)たる
御事の由、御当地の義ハ四神相応の地形ニ、繁昌の勝地を兼備たる場所
からとも申べき哉(や)ニ承(うけたまわ)り傳(つたえ)候
まず、注目すべきは「四神相応」についての大道寺友山の解説。
北高南低く東西に流れ有を以て四神相応の地と古来より申傳候所
この「四神相応」は一般に良く言われている「山川道澤」ではないのだ。
⇒四神相応(ウィキペディア)
どういうことかというと、『江戸史料叢書 落穂集』(萩原龍夫・水江漣子校注 人物往来社)に解説が載っている。
こういう古代の陰陽の理論は、戦国時代になると崩れてくる。謙信流の立地論では、西に原野、南に田畑、北に山林とし、東に流水がなければ川筋をつくり、山林や田畑がない場合には、あらたに造成しひらく。これは西北に高く東南に低いから冬は暖かく夏は涼しい。田畑や山林をひかえているから物資は豊かで、繁昌の地となる。北条流では、北高南低で南北に長く、東西南のいずれかに川か海がある地相をえらぶ。
大道寺友山の「四神相応」は北条流に近い。友山は後北条氏の重臣大道寺政繁の曾孫であるから、それもそのはず。
⇒大道寺友山(ウィキペディア)
「山川道澤」に合致しないから四神相応ではないというのは、正確には「四神を山川道澤にあてはめる四神相応ではない」というべきものであり、北条流では四神相応で間違っていないのだった。
(つづく)
(3/11追記)
「つづく」と書いたけど、ちょっと書く気が失せたので続かない。結論だけ書けば、家康は江戸が四神相応の地だと知っていた可能性はあるけれど、城を構えるのに吉祥の地を選ぶとか、土地を改造するとかは珍しいことではなく、言われるほど大層な話ではないってこと。