「空気の支配」と「正論原理主義」の違い

 マスコミが家父長的なパターナリズムに陥って、わけのわからない古びた勧善懲悪を振り回す。そういう空気の支配には唖然とさせられるが、その一方でインターネットの世界も空気に支配されている人が少なくない。「反マスコミ」「リベラル」「反サヨク」という空気に呑み込まれて、その論理の本質そのものは置き去りにされ、まともな議論は置き去りにされたまま空気だけが支配力を強めていくようなところがある。この空気の支配は、自分を正当化する。議論しない。悩まない。
 それこそがすなわち、「正論原理主義」だ。正論原理主義は楽チンである。なぜなら絶対的な正義を背中に背負っていると信じることができれば、思い切り大声で怒鳴ることができるから。怒鳴っているうちに、どんどん気持ちは高揚し、ますます自分は正論を吐いているんだと気持ちよく酔うことさえできる。

「正論原理主義」を乗り越えて:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan


この記事、はてなブックマークのコメント見ると評判悪いんだけれど、何で評判悪いのか良くわからん。だけど、俺は俺で、多分それとは違ったところで、この記事に賛同できない。


佐々木氏は「空気の支配」と「正論原理主義」を同列のものと見なしている。しかし、俺は全く違うもの、というか正反対のものだと思う。


まず、言いたいのは、「わけのわからない古びた勧善懲悪」と「正論」は違うということだ。「わけのわからない」ものを「わけのわからない」ものとして糾弾するのが「正論」だ。「わけのわからない」ものにも、論理では説明できない何かしらの理由があるというのが「正論原理主義批判」なんじゃないの?


だが、まあ、それはこの際ほっておこう。俺は「空気の支配」と「正論原理主義」にはもっと根本的な違いがあると思いますね。


「空気の支配」とは何か?それは、「場の空気」が自分の思いや考えとは違っていても、空気を乱さないように、それに合わせるってことじゃないの?みんなが楽しそうにしていれば、つまらなくても楽しそうにしてなきゃならない。逆もまた然り。また「○○は○○だ」なんて言論が支配的だったら、あえて異論を差し挟まない。あるいは同調する。そういうことじゃないの?


自分の言いたいことを言えない。疑問を持っても口に出せない。それは決して良いこととは言えない。


だけど一つ忘れちゃいけないことがある。それはあくまで表面上のことだということ。つまらなくても「面白いふり」をしなければならない。それは苦痛だ。でも、それは、つまらないことを面白く感じなければならないということではない。


正論原理主義」はそうではない。少なくとも俺の考える「正論原理主義」では。


正論原理主義」では「面白いふり」をしているだけではダメなのだ。心の底から面白いと思わなければならないのだ。「正論原理主義」を振りかざす者は、相手が「ふり」をしているだけじゃ満足しない。彼らは相手が演技しているのではないかと細かくチェックする。少しでも隙を見せたら、そこを叩く。絶対的に正しい「正論」なのだから演技をするなんて許されることではないのだ。それは「正論」を批判する敵よりも許せない卑劣なことなのだ。それがどんどん過激化していって、やがて悲劇を引き起こして挫折する。


「空気の支配」と「正論原理主義」と、どっちが良いかと聞かれたら「どっちも嫌」ってことになるだろうが、どっちかを選べと言われたら、俺は「空気の支配」を選びますね。