空気が読める

ここのところなぜかブログ巡りをしていると「空気」について述べたものを目にする。


日本教と原子力問題 - アンカテ
Life is beautiful: 「空気が読める日本人」と「言論の不自由」と
⇒2011-07-31 - 今日の雑談
とか。


俺は山本七平の『「空気」の研究』はトンデモ本だと思ってるし、トンデモ要素を抜きにして考えても、それは日本人特有のものというよりも、むしろ「保守的思考」と「革新的思考」の違いみたいなことを述べているに過ぎないものであり、山本七平は「保守」とされているかもしれないけれど、ここでの主張は近代合理主義者の思考(それをさらに徹底させたもの)であると思っている。


で、問題の「空気」だけれど、山本が言いたいのは、簡単に言えば普段「空気」は認識することがないが我々を支配しているものであって、その支配から脱するためには「空気」を認識しなければならない、すなわち「空気を読まなければならない」ということだと思う。もちろん一般に言われる「空気読め」とは、「空気を読んで空気に従え」ということだろうけれど。


何がいいたいかというと、ただ漠然と「空気」「空気」と言って反発しているだけでは、それは「空気読め」と正反対のようでいて相似形であろうということ。