歴史の研究は史料に基づいて行うもの。しかし史料があるからといって、それを鵜呑みにしてはいけない。史料批判が欠かせない。というのは、特に歴史に興味がない人であっても常識だろう。
史料批判は一般に、史料そのものが後世に偽造や改変を受けたものでないかどうか、一次史料に相当するか否かなど、その外的条件を検討する外的批判と、史料を残した人物が意識的ないしは無意識的に虚偽・錯誤の報告をしていないかを検討する内的批判とに分けられる。
「外的批判」については省略。ここで取り上げたいのは「内的批判」。
史料の信頼性を検討し、史料の性格や価値を判断する。信頼性とは、記述者と書かれた内容の関係を考察し、記事の確かさを検証することである。
歴史研究において一次史料を扱うことは必要不可欠であるが、一次史料が必ずしも正しいとは言えないので注意を要する。例えば、事件の当事者が事件直後に書いたものと、事件から相当経過してから伝聞を元に書いたものを比較すると、一般的には時間的・空間的に近く、また当事者に近い方が信頼性が高いと考えられる。実際、それまで知られていなかった一次史料の発見によって、従来の歴史解釈が大きく変わることもしばしばみられることである。ただし、当事者であるがゆえに、かえって自分に都合のいいように記述したり、都合の悪い点を隠す場合も多い(公表を意図して書いたものかどうか、など史料が成立した経緯も信頼性に影響する)。そのため、一次史料を別の立場から書かれた史料と比較検討することも必要である。
古い記録の場合、筆者がどういう人物か不明である場合も多いが、できるだけ筆者の人物像を明らかにすることが必要である。筆者の立場や教養、主義・思想などによって史料の信頼性は大きく左右される。また、一まとまりの史料群については、史料群全体の性格を理解することが重要である。史料を総合的に検討することで、正確な内容が多く信頼できる史料と、不確かな記述が多く信頼しがたい史料などの区別も付いてくる。例えば、ある宣教師の書いた報告書は、事実関係については相当正確であるが、宗教的な偏見から誤った解釈がされていることが多い、などといった史料の性格を把握することが大切である。
言語で表現された史料には主観が伴う。したがって、その作者の人物を考慮することは、その史料の信頼性を考える上で、重要な標準となる。
ということなんだけれど、こういうこともさんざん言われているので常識の範囲内だろう。
ただ、俺が思うに、世の中にはステレオタイプな史料批判が溢れていて、例えば、「誰々の権威を高めるため」とか「誰々が誰々を貶めるために」とか
「何々を正当化するために」あるいは「本当のことが言えなかった」といったものが実に多い。
これはウィキペディアに書かれている「虚偽の例」の「自分あるいは自分の団体の利害に基づく虚偽」「憎悪心・嫉妬心・虚栄心・好奇心から出る虚偽」「公然あるいは暗黙の強制に屈服したための虚偽」に該当するだろう。これらは、書いた本人が「正しいこと」を書こうとすれば書けたのに、何らかの理由があって書かなかった・書けなかったということになる。その「虚偽」は意図的に書いたということになる。つまり「陰謀」があったということだ。
しかし「虚偽の例」はそれだけではない。特に「倫理的・美的感情から、事実を教訓的にまたは芸術的に述べる虚偽」というのは重要だ。それに「錯誤の例」にある「総合判断の際の先入観や感情による錯誤」も重要だ。この場合、書いた本人は「本当のこと」を書いているつもりなのだ。そもそも、この場合、「虚偽」や「錯誤」といっても、それは科学としての歴史学から見た場合のことであって、別の価値観で見た場合は、また別の判断基準が存在するだろう。
例えば、「ある宣教師の書いた報告書」に、仏教や神道が「邪教」であるとか「悪魔崇拝」であるとか書いてあったとして、それを「仏教や神道を貶めるため」と理解するのは妥当ではないだろう。それらは宣教師達にとっては「事実」(キリスト教が唯一絶対なのだから)であり、わざわざ「貶める」必要はないのだ。もちろん、仏教徒や神道の信者にとっては「貶められた」ことになるが、貶めた方には貶めているという意識がない。だから「貶めた」というのであれば間違ってはいないけれど、「貶めるため」というと誤解が生じる。
(追記:念のために書くけれど、無意識なのは意識的なものよりも罪が軽いとか、そういう意味ではない。理解のためには区別が必要だという意味)
で、さすがにこの宣教師が「貶めるため」にそういう報告書を書いたと言う人はいないだろう(と思うけれどやっぱあるかな)。しかし、安易な陰謀論は、日本史について書かれたものを見るとたくさんあるんですね(世界史にもあるんだろうけれど詳しくない)。それが何で陰謀であると言えるのか書いてあればよいのだが、そんなことは書いてない。「こんなの陰謀に決まっているだろ、他に何があるというんだ」という感じ(あくまで感じだけど。本当はいろいろな可能性を考えた上でそういう結論になったのかもしれないが、でも読者にはわからない)。
これが一般人の書いたものに多いというだけなら別にいい。しかし、実際は作家や評論家もこの手の陰謀論を多用する。それどころか歴史学者の書いた本にもそういうことが書いてあったりする。というか一般人はこれらに影響されているのだろう。で、彼らには自分は史料を鵜呑みにするバカではないという自尊心があるんだろうとも思う(でも実際鵜呑みにしている人ってどれだけいるのだろうか?)。こういうのを見ると俺は非常に萎える。だけど、そういうのを一々毛嫌いしていたら読むものが極めて限定されてしまう。それくらい多い。
俺はもっと、いろいろな可能性を考えてみるべきと常々思っているし、そうすることで新たな発見があるだろうとも思ってるんですけどね。