血の継承

豊臣秀頼は秀吉の実子ではなく淀殿と他の男性との子であるという説がある。この説は淀殿が最初の子の鶴松に、既に「彼の子供ではない」という話があったことをフロイスが記しているくらいだから、同時代からあったものだ。それが江戸時代に話に尾ひれがついて、淀殿淫乱説となっていく。ただ、俺が考えるに、元からあった話が広まるにつれて、改変されていくというのは「伝説」の流布にはよくあることであり、そこに「貶めるため」という悪意を考えなくたって良いのである。テレビで伝言ゲームをやっているのをよく見るが、本人は正しく伝えようとしているのに、元の話とは違ってしまうなんてことはよくあることなのだ。


歴史家は秀頼は秀吉の実子であるという説を支持し、不倫説をしりぞける。証拠があるわけではないので、それが無難ってことだろうが、淀殿「不倫」説が荒唐無稽の話だとするのも言い過ぎってもんだろう。それに「不倫」というけれど、秀吉公認だったという可能性だってあるのではなかろうか?事実はDNA鑑定でもしなければわからないが、それは無理。


ただ、これらの論争は「血の継承」が常識だという前提の上でなされていると思われるのだが、そこはもっと考えてみるべきところではないのかと俺は思う。もちろん当時にあっても実子もしくは血の繋がりが濃い者を後継者にするという考えが主流であっただろうし、江戸時代も基本的にそうだろうし、現在でもそうだ。


しかし、戦国時代の武家を見ていると例外も結構ある。その代表例は上杉謙信だろう。元は長尾景虎といい長尾氏であったが、関東管領山内上杉氏家督を相続したのである。また毛利元就の次男は吉川氏を継いで吉川元春となった。三男は小早川家を継いで小早川隆景となった。隆景の場合は妻が小早川一族であったけれど、元春の場合は家を乗っ取ってしまった。隆景の次が秀秋で豊臣秀吉正室北政所の縁戚であり、小早川とは何の関係も無い。織田信長の次男の織田信雄は伊勢の名門北畠氏を継ぎ、三男信孝は神戸氏を継いだ。また秀吉の姉の子は三好康長の跡を継ぎ三好信吉となった(豊臣秀次)。家康の次男秀康は秀吉の養子となった後、結城家を継いだ。マイナーなところでは世田谷の吉良氏は頼康の代に今川貞基の子の氏朝を養子に迎え、その妻は北条氏康の娘であった。


これらの中には妻が一族出身である場合もあるので、血の継承がなかったとはいえないものもあるけれど、実質的には会社の経営者一族が変わってしまったようなものだ。


現在では血統よりも能力が優先されるというのが(建前としては)社会通念だ。そして過去にはそうではなくて血統が重視されたと考えられている。もちろんその通りではあるのだが、その考えが絶対的に正しかったかというとどうだろう?例えば戦国時代には天下は持ち回りって考えられていたといわれる。家康も秀忠が無能だったら滅ぼしても構わないというようなことを言っていたらしい。逆に言えば秀忠は有能だったから天下を継いだのであり、家康の子だから天下を継いだのではないという論理になる。歴代将軍も建前上はそうなっているのだろう。優秀な人間が「たまたま」徳川に生まれたってことになっているんじゃあるまいか?


秀吉の場合も最初は自分の子に後を継いでもらいたいと思っていたかもしれない。しかし、自分に子供が出来ないのではないかと考えた時、考えが変わった可能性もなくはない。「優秀な者」に後を継がせようと思ったかもしれない。ただし、この「優秀な者」というのは現代人の考える優秀な者とは全く違ったものであり、宗教的・呪術的な側面も含まれていただろう。そう考えた時、織田氏と浅井氏の血統を受け継いだ淀殿の子に自分の魂を注ぎ込み、自らの分身として後を継がせようと考えていたということも有り得るのではないかと思うのだ。


もちろん証拠はない。ただ淀殿不倫説は彼女を「貶めるため」のものであったということを根拠として、実子説を補強するなんてのはあまり合理的な思考法だとは思えず、また逆に実子であろうとなかろうと秀吉の後継者は秀頼なのであり、実子でないから「豊臣恩顧の多くの大名たちが家康側についた(ウィキペディア)」なんてこともないのであり、そういうのを排してもっと冷静に考えてみるべきなのではないかと思うのだ。