ここのところ毎日見ているのだけれど、また書き換えられていた。
⇒淀殿
ところで、あらためて読んでみると
淀殿と大野治長とは乳兄妹であり、二人の密通が噂されていたという記録も残る。そのため、秀頼は秀吉の実子ではなく治長と淀殿の子であるとする説が当時からささやかれていた[17]。
ってあるんだけれど、これってどうなの?フロイスの日本史によると「鶴松」懐妊の時に実子ではないという噂があったことがわかる。もちろん鶴松が実子でない(秀吉に子種がない)なら秀頼についてもそういう噂があったことはまず間違いないとは俺も考えるけれど。大野治長の名が当時からあがっていたという話は知らない。
小谷野敦氏によると『看羊録』という史料に
家康の妾になるよう言われたが、大野修理の子を妊娠していたから断った
⇒猫を償うに猫をもってせよ - 伊東に行くならハトヤ
とあるそうだが、こういうことが当時噂されていたとしても、当然これは秀吉死後のことで、この子は秀頼ではないですね。
あと、
徳川と争えば豊臣を滅ぼす事になると、戦を回避しようと努力していた片桐且元や織田有楽斎を追放した上、さらに徳川方が提示した和睦案を蹴ったのも、従来は淀殿の気位の高さと強情によるものと説明されることが多かったが、今日では実は淀殿は自ら人質となることを承諾していたものの、総大将の秀頼が母を人質することを嫌いこれを蹴ったものと説明されることが多くなっている。
とあるけれど、片桐且元や織田有楽斎は出ていったのであり追放したのではない。そういう説明が昔は多かったが今日では変わったという内容ではあるけれど、その部分の否定にはなってないですね。
というか、その上の方には、
冬・夏両陣の最中でも意見が対立して出奔したのは織田一族や片桐且元など数名にとどまっており、
という記述があるんですけれどね。
(それにしても「総大将の秀頼が母を人質することを嫌いこれを蹴ったもの」って誰が言っているんだろう?これも結構怪しい)、
ついでに、
とあるけれど、今読んでいる『淀殿」(福田千鶴)によれば、これも怪しい。
気付いたなら訂正すればいいじゃんって話なんだけれど、俺は今まで一度もウィキペディアの編集をしたことがないし、これからもするつもりは一切ない。いわゆるヲチ専門。なんかそういうのを素人の俺がするなんて、もしかしたら俺が知らないだけかもしれないじゃないかと思うと、大それたことのように感じてしまう小心者なんですね。