血天井に関するトンデモ考察

俺のトンデモ魂に火がついちゃったので、少し前に思いついたトンデモ仮説を書いてみる。


きっかけは桐野作人氏のブログ記事
2つの血天井、御土居堀 - 膏肓記
血天井への素朴な疑問 - 膏肓記


果たして血天井の由来は本当なのか?というか、そもそも血のように見えるものは本当に血なのか?なんてことは既に多くの人が疑問に思っているところで、一説では、あれは大工の手の油だという尤もらしい説がある。
逍遥七条京阪(TIMEREADING)
もしかしたら、そうなのかもしれないけれど、もう一捻りしてみたい。


そもそも血天井とは何か?桐野氏の記事にもあるように、

血天井関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城攻防戦で亡くなった鳥居元忠ら徳川方の将兵の血潮が床板に染み込んでいたのを供養のため、天井板にしたもの。

(京都以外にも血天井があるけれど、今は略)


血天井巡り(ときじくの香の菓)
の記事が詳しいので少し補足すると、

鳥居元忠達の遺骸は関ヶ原の戦いが終わるまで約2ヶ月もの間、伏見城に放置され、その血痕や顔や鎧のあとが縁側の板に染み付き、いくら拭いても洗っても落ちなくなった。そこで、縁側からその板を外し、供養のため寺に移した。その際に床を、足で踏む床板にしては供養にならないからと、天井にして手厚く供養しているものがいわゆる「血天井」として京都各地に今も残っているのである。

ということらしい。実はここに大きなヒントが含まれているのではないかと俺は思うのだ。どの部分かというと「その際に床を、足で踏む床板にしては供養にならないからと、天井にして手厚く供養している」という部分。板を床に使わないで天井にしている、すなわち「天地が逆転している」。何が言いたいか察しがついたと思うけれど、「血天井」は元々「地天井」なんじゃないのかということを言いたいのであります。


しかし、これじゃただの駄洒落。床じゃなくて天井の板にしている本当の意味を説明する必要がある。ここでもう一つ注目すべきは、血天井伏見城の遺構だということ。「血天井」が、鳥居元忠とは何の関係もない後付けの伝承だとしたら、本当に重要なのは、この点だということになるだろう。

廃城に際して天守を始め多くの建物が他の場所に移築された。有名なものでは二条城や常寂光寺などがあり、なかでも福山城には、櫓、城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、土塀など特に多くの施設が移されている。 移築の伝承を持ち現存する主な施設を以下に挙げる。この内、移築が裏付けられているのは指月山伏見城の遺構である西教寺客殿と徳川期木幡山伏見城の遺構である福山城伏見櫓のみである。

伏見城 - Wikipedia


秀吉の伏見城聚楽第の遺構と伝えられているものは数多くあるけれど、ほとんどは言い伝えによるものであって、裏付けられているものは数少ない。実際は違うのも含まれているのだろう。なぜ多くの言い伝えが残っているのか?それは伏見城聚楽第が立派な建物だったのでリサイクルされたのだろうという推測があったということもあるかもしれないけれど、秀吉のいわゆる「桃山時代」が豪華絢爛な時代として、人々の憧れの対象であったからかもしれない。この時代の遺構が寺社に使われるというのは、それらの寺社に箔が付くことになったのではなかろうか。


となれば、遺構は「お宝」であり、大切に扱わなければならない。床板に使うなどもっての他である。というわけで「手厚い供養」ならぬ「手厚い保存」のために、天井板として使われたのではなかろうか?(天井板と床板では厚さが違い、地天井の板は天井用の素材だって先に紹介した「逍遥七条京阪」に書いてあるので実は苦しいんだけど)


で、血の跡のように見えるのは、やはり人間の皮脂なのだろう。だとして、これは自然に付着したものか?伏見城の遺構が貴重物として扱われていたとしたら、ピカピカの新品よりも中古品の方に価値があったかもしれない。中にはわざと汚して、「これは伏見城に使われていた板ですよ」なんて売り込む悪徳商人もいたりして…



などということを何の証拠もなく想像してみました(あと、地方の血天井は、京都の血天井を見て、オラが地元にも似たような天井があるけれど、もしかしたら…みたいな形で派生したんじゃないかとか)


※全て妄想ですけどね


あと桐野氏は血天井は京都近辺に5カ所というけれど、それは「養源院」「正伝寺」「源光庵」「宝泉院」「興聖寺」のことと思われ、しかし実は他にもあって、ネットで調べたところでは、「栄春寺」「妙心寺天球院」「神応寺」にもあるそうだ。