「釣られる」

「釣られる」ってどういうこと?って聞いたら、普通は、実話に見せかけた創作などを、実話だと信じてしまうということが「釣られる」ということだという答えが返ってくるんじゃないだろうか。


実際にはそれだけじゃなく「真実だとみなして検証・推理する行為」までを含めて「釣られる」という表現が使われているように思う。「あえて釣られてみる」とか、そんな感じで使っている。


後者は恥ずかしい行為でも何でもない。しかし、ここで自ら「釣られる」という語を使うのは、「真実だとみなして検証・推理する行為」が他人の目から見たら「信じている」かのように見えてしまうのではないかという恐れがあって、現にそう見なす人がいるからであり、そういうツッコミに対する予防として、自分はわかっていてやっているんだという意味で「釣られる」という語を使用するってことになるんだろう。


しかし、本来はわざわざそんなことを言う必要はないのだ。信じているのか、そうではないのかなど、書いてあるものを読めば大抵わかることだ。「釣られてみる」などということを書くことは全く余計なことであり、それ自体が何か嫌な感じになるし、病的な感じすらするが、ある程度は仕方のないことなのかもしれない。


ちなみに「釣られる」ではないけれど、歴史関係の本など見ていると、たとえば「ヤマタノオロチ」伝説などについて、「事実でないのはもちろんだが」とか「荒唐無稽な話であることは言うまでもない」などと書いてあるものを見かけることがよくあるのだが、「言うまでもない」ことを何故わざわざ書くんだ?と常々思っている。そりゃ実話だと信じている人も読者の中にはいるかもしれないけれど極めて少数だろうし、その場合その人にとっては「言うまでもない」ことではないので意味がない。そういうことを書く理由は、信じている人に対してではなくて、馬鹿馬鹿しいことだが、自分がそれを信じていると疑われるのではないかという不安からなのではないのかと思ったりする。