神武東征伝説と徳川始祖伝説(その3)

神武東征伝説は、九州を拠点としていた勢力が、大和の地を征服したという話と一般に理解されている。というか「日本書紀」は明らかにそういう話として書かれている。


しかし「書紀」の元となった伝説は、そういう話であったのだろうか?「書紀」が採用した話では既にそうだったかもしれないが、大元の伝説では、そういう話ではなかったものが、徐々に意味が忘れられたか何かで、現在の我々がそう解釈しているように当時も解釈されてしまっていたのかもしれない。俺はその可能性が高いと思う。


つまり、神武東征伝説は、「九州の勢力を祖とする人々による、大和を征服した英雄を称えるための伝説」ではなく「大和を地盤とする人々が、かつてこの地に外部からやってきて活躍した英雄を称えるための伝説」であったのではないかとういこと。


大和における神武天皇は、徳川始祖伝説における松平親氏と同様、その地を治める「王」の家に、貴種が外部からやってきて、王の娘と結婚して家を継ぎ、周辺地域を平定して、繁栄の礎を築いたという物語ではなかったのか。


ここで重要な鍵を握るのが神武皇后の「ヒメタタライスズヒメ」だ。
ヒメタタライスズヒメ - Wikipedia


神武以降の天皇は全て彼女の子孫となる。もちろんコノハナサクヤビメやトヨタマビメやタマヨリビメについても、彼女達の子孫が天皇になったと言うことができるけれど、彼女達と違うところは、神武には他にも后がいたというところだ。


神武には日向在住時に娶った吾平津姫という后がいた。
吾平津姫 - Wikipedia

神武と吾平津姫の間には手研耳命という皇子がいた。
手研耳命 - Wikipedia


もし、手研耳命皇位を継承していれば、皇統は全く異なったものとなっていた。だけではなく大和朝廷そのものが大きく異なったものになっていたはずだ。なぜなら、吾平津姫手研耳命にとって大和は縁もゆかりも無い土地だからだ。神武は大和という土地に対するこだわりがあったかもしれないが、手研耳命にとってもそうだったとは限らない。とっとと外の土地に遷都したかもしれない。そうなったら「大和朝廷」ではなくなる。


大和朝廷」が「大和朝廷」であるのは、ヒメタタライスズヒメの子孫が皇位を継いだからだ。ヒメタタライスズヒメの父は「書紀」では事代主神、「古事記」では三輪大物主神であり、「国津神」と呼ばれる神だ。


天皇天津神の子孫であると同時に、国津神の子孫でもあるということになる。


しかし、よくよく考えてみれば、この物語は、実は国津神の子孫である大和の王の家系に、外来の天津神の子孫である神武の血が入ったという話だとして見ることが可能なのだ。神武以前にも「大和の王家」があり、神武以後も「大和の王家」が続き、その間、一代だけ神武が「婿」として王となり、「大和」が繁栄する礎を築いたという物語としてみることが可能ではないのか。


三河の豪族松平氏は親氏以前から存在し、流浪の親氏が婿入りして、松平氏繁栄の礎を築いた始祖とする「伝説」があるが、その子孫は相変わらず「世良田」でも「得川」でもなく「松平」であった。そして家康の代に「徳川」と改姓した(すなわち徳川氏の祖は松平氏のルーツを遡るのではなく、世良田氏、新田氏、そして清和天皇へと遡ることになる)。


「神武東征伝説」の成立もそれと似たような経緯があったのではないかと思うのだ。