ヤマトはなぜ都なのか?

ヤマト王権の都はなぜヤマトなのか?もっとも基本的な疑問なんだけれど、定説がないにしても、これについてどう考えられているのかが、よくわからない。俺が無知なせいなのかもしれないが、少なくともネットで思いつくキーワードで検索しても簡単にそれらの説の概要がわかるようにはなっていない。


邪馬台国論争とかを見てもよくわからない。ただ、何となく思うのは、畿内説ではヤマトを地盤とする有力な部族が周囲の部族を併合していったと考えている人が多いんじゃないかと。そして九州説も、九州の勢力が東に進出してヤマトを征服したということで、この場合ヤマトは地方政権ということになるけれど、そうはいってもヤマトは畿内の中心ということになるから、それはなぜかといえば上と同じような理由を考えているんじゃないかと(ま、よくわからないんだけれど)。


しかし、徳川家康はなぜ江戸に幕府を開いたかといえば、その理由はいろいろ言われていて、俺も思うところがあるけれど、少なくとも家康が江戸出身ではないということだけは確かだ。同じく豊臣秀吉は大坂出身ではないし、織田信長は安土出身ではない。足利尊氏の出生地は複数の説があるけれど京都を地盤としていなかったことだけは確かだ。源頼朝の場合、鎌倉は源氏に縁があるから微妙だけれど、それでも地盤というほどじゃないと思う。


そう考えればヤマトに都が置かれたのは、そこを地盤としていたからではなくて、地政学的な理由によって、そこが選ばれたのだとしても不思議ではない、というか俺はそう思う。東遷説を俺は支持しないけれど、仮にヤマトを征服したのだとしても、ヤマトに都を置いたのは単にヤマトを征服したからというだけでは理由になってないのではないか。


ちなみに俺はヤマトに都があるのは、ヤマトが「日本」のほぼ中心にあるからだと思う。つまり、当時の「日本」の範囲は少なくとも関東までが入っているのでなかろうかということ(実際に支配していたのか、そう認識していただけなのかという問題は別として)。ま、トンデモなんだけど。