「騎馬民族征服王朝説」の意義

保立道久という歴史学者がいる。俺は著書を一冊も読んだことがない。ただこの人がブログをやっているのを知ってしばらく前から読んでいる。神話と歴史とか方位信仰など、俺にとってとても興味深いテーマを扱っているのだが、個人的な感想としては氏の主張にうなずけるものがほとんどない。


今回読んだ記事は特に違和感を持った。
火山地震41騎馬民族国家説か、火山神話国家説か: 保立道久の研究雑記

 こう考えた場合に、民族学岡正雄石田英一郎東洋史江上波夫、考古学の八幡一郎などが、一九四八年に行った座談会で提起された騎馬民族国家説が大きな問題となるということになる。
 よく知られているように、この仮説は、ユーラシアの北東部にひろがるウラル・アルタイ系の諸民族の活動を、日本国家の成立に深く関わる問題とし、その広域的な文化や世界観の理解にまで立ち入るという雄大なものであった。いま読んでみても、彼らが縦横無尽に展開した学際的な議論は魅力的なものがある。
 彼らの主張は、実際上、第二次世界大戦前の「皇国史観」の中枢をなしていた偏狭な民族主義的な歴史観を突きくずす上で、大きな役割を発揮したと思う。天皇家の祖先はユーラシアから、この列島に侵入してきた。天皇を中心とした神話はモンゴルや朝鮮の諸民族と同じものだという主張が社会の耳目を集めたのは当然のことである。とくに日本の人文学の学史の中でみれば、騎馬民族国家説は、神話学・人類学・民俗学が、「皇国史観」の時代の反省の上に立って、はじめて協同して展開した社会的主張として特筆すべき価値をもっていたことは明らかである。

第二次世界大戦前の「皇国史観」の中枢をなしていた偏狭な民族主義的な歴史観というけれど、その戦前・戦中には、「日鮮同祖論」あり、「日ユ同祖論」あり、「高天原はバビロニアにあった」説あり、「邪馬台国エジプト説」あり、「日本人=アーリア人」説あり、すなわち「天皇家の祖先はユーラシアから、この列島に侵入してきた。天皇を中心とした神話はモンゴルや朝鮮の諸民族と同じものだ」説に類似するものが多数存在した(「邪馬台国エジプト説」の場合、エジプトは「日本」だから外部から来たというのとはちょっと違うけれど)。しかもそれらは必ずしも反皇国史観とはいえず、むしろ同じ側にあったように思われる。


それらの説と「騎馬民族征服王朝説」との違いは何だろうかと考えるに、はっきりいってよくわからない。


ただし、この説が戦前・戦中の説と大して違わないにもかかわらず、保立氏の言うように第二次世界大戦前の「皇国史観」の中枢をなしていた偏狭な民族主義的な歴史観を突きくずす』ものとして受け入れられたということはあるだろうとは思う。


騎馬民族征服王朝説 - Wikipedia」の「学説に対する批判」を読むと、批判者もまたそのような感じで受け止めていたということがわかる。ただし、

佐原真は騎馬民族説を「昭和の伝説」とし、「戦時中には、日本神話が史実として扱われ、神武以来の万世一系の歴史が徹底的に教え込まれました。江上説にはそれをうちこわす痛快さ、斬新さがあり、解放感をまねく力がありました。また、人びとの心の奥底では、日本が朝鮮半島や中国などに対して近い過去に行ってきたことの償いの役割を、あるいは果たしたのかもしれません」といっている[13]。

田辺昭三は「この説はこれが提唱された時代の要請の中で生まれた産物であり、いくら装いを改めても、もはや現役の学説として正面から取り上げる段階ではない」と評した[14]。

とあるように、保立氏が「偏狭な民族主義的な歴史観を突きくずす」と言ったときに感じられる、枠に閉じ込められていたものが解放されたというニュアンスとは異なり、以前囚われていた価値観から、「時代の要請」によって作られた新たな別の価値観に移行したにすぎず、要するにどっちもどっちというニュアンスがあり、俺もそうだろうと思う。