★登呂遺跡の件、もう少し調べてみたら、実は「登呂遺跡の教科書記載」そのものに「政治的な意義」があったらしい。
登呂遺跡発見の「政治的意義」とは、「日本書紀記載の年代以前に、東日本に稲作が伝わったこと」の立証。つまり「日本書紀の否定」
まあ、実際の学問レベルでは、日本書紀を否定する研究もされていたのかもしれないが、それが義務教育教科書に掲載されることがなかった。
⇒登呂遺跡がリストラされ、中年の知らない遺跡が記載される歴史教科書
「日本書紀記載の年代以前」っていつ?
天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。
神武天皇が即位したのが紀元前660年で、それよりも遙かに前の出来事なんだから、どう考えたって神話の方が弥生時代より前だと思うけど…
ちょっと何言ってるかわかりませんね。
なお
※GHQが必要以上に登呂遺跡の「意義」を強調するよう、教育介入したような気もする
とあるので、それで調べてみたところ
戦争後にGHQによって、日本は地面に隠されている先人たちの遺物をきちんと科学的、学術的に研究すべきと指摘され、それまで日本に考古学会はなかったが、初めて登呂の発掘から考古学が世に旗揚げをした。だから静岡は考古学の発祥の地なのだ。
⇒2011年11月4日 第20回経済同友会 中央日本地区会議 鼎談 要旨 (注PDF)
とある。
まあGHQが神話を否定して科学的な歴史観を日本人に身につけさせようとしたのは事実ではあるのだろう。そのアメリカは今でも進化論と聖書の問題で揺れているわけだが…
なお、こっちの記事には
坪井正五郎は、東京 大学在学中の明治17(1884)年、東京人類学会を組織、2年後には日本で初めて考古学・人類学専門雑誌『人類学会報告』(現在の『人類学雑誌』)を創刊した。続く明治 28(1895)年には、これに三宅米吉が加わり考古学会も発足、翌年から『考古学会雑 誌』も創刊され、次第に人類学と考古学は分化、その組織も東京帝国大学人類学教室を 基盤に、多くの志ある人たちに考古学の有用性を認識させ、全国的なものへと発展して いった。
⇒(5) 縄文時代の研究の流れ
と書いてある。また
なお、明治時代の考古学は縄文土器の地域性や、弥生土器と縄文土器の弁別など、今の 考古学体系の基幹をなす発見も数多いが、論争の主力は、日本石器時代人がコロボック ル(アイヌ伝説にででくる蕗の葉の下に住む小人)かアイヌかといった、初期的な人 種・民族論争であり、これは小金井良精の“縄文人=アイヌ説”で頂点に達した。しか し、こうした論争の背景には、日本人の祖先は天孫神話に裏付けられた大和民族以外に あり得ないという、学問以前の民族主義的歴史観が大きく作用していたことも忘れては なるまい。
とも書いてあるので、戦前までの歴史研究に日本神話の制約があったことは確かだろう。ただし現在の歴史研究においてもそれとは別の(戦前の反動としての)制約がなきにしもあらずだと俺は思っているが。