織田信長の岐阜命名

「信長学」にちなんで俺もこれから時々信長について書いてみようかと思う。


「岐阜」という地名は織田信長命名したという説が良く知られている。一方、信長以前からあったという話もある。

ただし、岐阜市案内(岐阜市教育会編、大正4年)では、「一説には、古来、岐府、岐陽、岐山、岐下と書き、明応永正の頃より旧記に岐阜と見えたれば、信長の命名にあらず」と記載している(ただし、一説および旧記の出典は掲載がなく不明)。「岐阜市史」などによると、『仁岫録』(仁岫宗寿、成立年代不明、原題・当寺創建仁岫大和録、南泉寺(岐阜県山県郡大乗村)蔵、撮影・複本作成1921年、東大史料編纂所)、『梅花無尽蔵』(万里周九による東陽英朝の語録、東大史料編纂所国立公文書館など所蔵、寶永6年刊・駒澤大学図書館)などに岐阜、岐阜陽、岐陽という語句が書かれている。

岐阜県 - Wikipedia


これは、ちょっとした信長ファンなら知っている事実。だけど、前からそういう呼称があったからといっても、上にあるとおり「岐阜、岐阜陽、岐陽」とあるんだから、もし信長が「岐陽」にしようって決めてたら、今の地名は「岐陽」だった可能性もあるのであって、信長が関係ないってわけではない(信長が「岐阜」を選んだというのが事実だとしたらの話だが)。


「岐陽」などが起源だとすると、その呼び方が一般に流通してたのかが不明。文人禅僧などが好んだ呼称であって、土地の人でも知らなかったってこともあるかも。


それと、そう呼ばれていたのは美濃守護土岐氏の居館があった川手(革手)の周辺だと思われ。
川手城 - Wikipedia
(しかし「美濃国諸旧記」によれば、信長が「岐阜」と「中節・井ノ口・今泉・桑田」を合わせて岐阜と定めたとある。だとすると、元の岐阜も信長の定めた岐阜の中にあったことになるので、川手周辺ではないということになるだろうと思う。自信ないけど)


というわけで、不明な点が多々あり、昔から「岐阜」と呼ばれた場所があったことは確かなようだけど、それ以上のことは謎。



岐阜市案内(近代デジタルライブラリー)
岐阜志略(近代デジタルライブラリー)
美濃国諸旧記・濃陽諸士伝記(近代デジタルライブラリー)


岐阜県立図書館 回答(【談話室ゆづき】)