人魚姫と崖の上のポニョ

アンデルセンの「人魚姫」を今日の日本に舞台を移し、
キリスト教色を払拭して、幼い子供達の愛と冒険を描く。

映画「崖の上のポニョ」公式サイト


キリスト教色を払拭して」って、そもそもアンデルセンの「人魚姫」ってそんな話だったっけ?って検索してみた。

人魚姫 キリスト教 の検索結果


こんな深い話だったとは…
よもやまdansk
堺キリスト集会 メッセージの部屋: 人魚姫のあこがれ 〜永遠のいのちを求めて〜


というわけで「青空文庫」にあったので読んでみた。
人魚のひいさま(青空文庫)
すごい話だこれは。でもどうなんだろう?アンデルセンがどういう思想を持っていたかなんて俺は知らないので、何ともいえない。


だから俺の受け取った印象を書けば、


人魚というのは300年の寿命がある代りに死ねば泡となる存在。人間は肉体が滅んでも魂は不滅。だけど人魚たちはそれが不幸なことだとは思っていない。むしろ人間よりも幸せでずっといいものだと思っている。人魚姫だけが違っていた。


これはキリスト教といえばキリスト教なのかも知れないけれど、信仰を持たないものと持つものとの違いのようにも思える。そして人魚を人間よりも劣った存在とみなしているように考えることができるかもしれないけれど、「死んだら泡になるだけ」という考えは、むしろ近代的・科学的・合理主義的・進歩的な考えとも受け取れる。アンデルセンも19世紀の知識人だから、そういう思想から思いっきり影響を受けているだろう。もはや「永遠の魂」を単純に信じることなどできなかっただろう。


しかし「永遠の魂など存在しない」と考えてしまってよいものかと宗教と科学の間での葛藤にアンデルセンは悩んだんじゃなかろうか(なんて勝手に妄想する)。


どっちか一方を信じて疑わない人は幸せだ。人魚は別に不幸な存在として描かれているのではない。人魚にとっては自分達の方が幸せなのだ。その中で「人魚姫」だけが苦難の道を歩むことになる。それはなぜかといえば「死んだら泡になる」存在に疑問を持ってしまったからだ。人魚姫は人魚の子の中でも「少し変わった子」だったことが描かれている。


それは「永遠の魂」を素直に信じることができなくなってしまった世界に生きながら、「永遠の魂」は存在しないと言い切ることもできない人(おそらくアンデルセン本人)の反映ではなかろうか。そして、王子の愛を得られないというのは、「永遠の魂」にあこがれながら、もはや素朴な信仰を持つこともできなくなってしまった人を表現しているのかもしれない。


なんてことを思うのであった。