東浩紀とポストモダニズム系リベラル

少し前の話になるけれど、以前話題になった東浩紀の「南京大虐殺」に関する発言が再燃していた。
Togetter - まとめ「東浩紀と南京大虐殺」
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ちょっとブログをする気力が萎えていたので、スルーしてたんだけど、今更ながらそれについて書く理由は、本当は問題にしたいのは東浩紀ではなくて内田樹なんだけれど、それと関わりがあるんじゃないかと思って(といっても俺は現代思想に詳しいわけではないということは書いておく)。


大元の発言は以下の通り

A.いまの日本社会に、南京大虐殺があったと断言するひとと、なかったと断言するひとがそれぞれかなりのボリュームでいるのは事実である(この場合の南京大虐殺は例)。

B.ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。

C.だとすれば。ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである(この場合の「耳を傾ける」=「同意する」ではない)。

C'.逆に、もし「南京大虐殺がなかったと考えるなどとんでもない」と鼻から言うのであれば、そのひとはもはやポストモダニズム系リベラルの名に値しない。

C''. むろん、上記の主張は、右と左を入れ替えても言える。

D.ポストモダニズムリベラリズムの立場とは、このようにハードで、ときに自己矛盾を抱えかねないものなのだ。

東浩紀の渦状言論: 虐殺問題についていくつか


さて、この一連の騒動で、まずよくわからない点は、何が問題になっているのかということだ。つまり、「東浩紀ポストモダニズムに対する理解は間違っている」という問題なのか、「東浩紀ポストモダニズムに対する理解は正しいが、ポストモダニズム自体がおかしい」という問題なのか、一体どっちなんだということがよくわからない、というか、そういう問題意識を持たないで、ただただけしからんと言ってる人も少なからず見かける。もちろんそうでない意見もあるけれど。


俺は個人的には、そもそもポストモダニズムリベラリズムとは何ぞや?」って疑問があるだ。それ以外の「ポストモダニズム系」にも呼び方があるんだろうか?例えば「ポストモダニズム系保守」とか。検索しても東氏関連のものしか見つからないのは俺の検索キーワードが間違ってるからだろうか。


で、大雑把に言えば、その部分を「ポストモダニズムリベラリズム」に限定しないでも、「ポストモダニズム系」であれば、そう東氏が書いているように考えるのが妥当ではないかと思う。ただし、違和感があるのは、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」の「公共空間の言論は開かれていて」の部分。ここが「リベラリズム」的なのかもしれない。よくわからんけれど。

(ちなみに「絶対的真実はない」ではなく「絶対的正義はない」だという意見もあるみたいだけれど、ここでは「絶対的真実」でいいと思う)


さて、東氏は、

ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。

と言うけれど、俺はそれについて無知だから本当にそういう主張があるのかは知らない。しかし、それが本当だとしても俺はそれに賛同できない。


すなわち「公共空間の言論は開かれていない」と思うのだ。公共空間にはたとえ文章化されてなくても「不文律」があるだろうと思うからだ。もちろん、その暗黙のルールは絶対的なものではなく、時代や場所や文化などによって多種多様であると考える。


(たとえば、一般人が普通に口にしていることでも、政治家がそれを言ったら「問題発言」になるとかいったものもそうだろう。それに対する反応として、言論の自由だ」という意見と「政治家は思ってても口にするべきでない」という意見とで対立することはよく見かける光景だが、俺は通常後者を支持する傾向にある。一方、それと同時に「正しいことを言って何が悪い」という意見と「間違っているのでそんなことを言うのはけしからん」という意見が対立しているという光景も良くみかけ、しかも前者の対立と後者の対立が相乱れてカオスになっているというのもよくある光景で、東氏の発言を巡る騒動も似たような状況になってる)



これに関して、別に俺が正しいと言うつもりはないけれど、「絶対的真実はない」ということには賛同できても、「公共空間の言論は開かれていて」ということには賛同できないという立場もありえるということで、そこが東氏の言う「ポストモダニズム系リベラル」とそれ以外の「ポストモダニズム系」の違いということになるだろうとは思う。


(すると「リベラル」とは「公共空間の言論は開かれていて」と考える人のことなのかという問題が浮上してくるんだが、昨今の状況を見るとそうとも言えないように思うわけで、このネーミングは不適切なのかもしれないと思う。これはあくまで呼び方の問題だろうけど)



ところで、複数の歴史像が存在する場合、その中から一つ選びとる基準はという問題に関して、『歴史学ってなんだ?』(小田中直樹 PHP新書)には、

 歴史学の立場からすると、これは簡単な問題です。歴史像を選びとる際の基準は正当性であり、歴史像の正当性は、


「どのように(事実)に迫りえているか、どの程度の説得力があるか、総じて歴史像が文書・記録・証言・物証などによってどれだけ論理的・説得的に構成されているか」(日本の戦争責任資料センター編〔a]一二九〜一三〇ページ)


という基準によって測定されます。

と書いてある。その通りだろう。ただし歴史学の立場からすると」である。だから、「歴史学の立場」に立って発言するのであれば、歴史学の基準に合格するような主張をしなければならないと思うし、そうでないものが耳を傾けられなくても致し方ないと思う。しかし、歴史学という空間の外(たとえば「社会学の空間」)でなら話は別になるかもしれない。とはいえ、歴史学の空間以外においても、「暗黙のルール」は存在するし、そこには歴史学のルールが影響を与えているということはできるとは思う。