統治者の論理

理解という許容 - kom’s log


言いたいことはわかるけれど、統治者には統治者である以上、大局的な見方をしなければならないという統治者の論理があり、それは自民・民主はもちろん共産・社民であっても変わらない。科学者もまた通常は普遍的な問題を扱うのであり同じだ。


それを拒否するのであれば自己の責任において行動するしかない。そして統治者の論理と衝突することがあれば統治者と戦わなければならない。


つまり、

横暴な車の運転を行う人間に対して「やめてください」と注意したところ「あなたが事故に遭う確率はたったこれだけです」と反論され、なだめられたとしよう。あなたは理解するだろうか?さらにはそれを眺めていた第三者の歩行者が歩み寄り、「そうです、事故のリスクなんて実に少ないんですよ、実は私は保険会社の統計部におりまして」「あなたも車に乗るでしょう。便利でしょう。救急車がなかったら死ぬかもしれない」などとあなたを説得し始めたとしよう。あなたの心は「もしかしたら自分は間違っていたかも」と揺らぎ始めるかもしれない。

というケースでは、運転手の言い分に運転手としての立場からの正当性があるのならば、「やめてください」と言っても聞かない場合は、運転手の態度を改めることを期待するのではなく、車を降りなければならない。降車を阻止されるようなら力ずくで降りなければならない。そこから先は徒歩しか手段がなくても歩かなければならない。「統治者」に期待しても無駄である。


そしてホメオパシー問題で議論されたのと同様に、もしそこに幼い子供が同乗しているのならば、保護者である「あなた」は、自己の決断した行動によって、車に乗っていれば遭遇しなかったであろう危険を負わせることになるかもしれないということを認識しなければならない。すなわち自分が「統治者」になったということを自覚しなければならない。