お金の背後にあるもの

「お年寄りを見殺そう」という第三極の政治勢力: やまもといちろうBLOG(ブログ)

 もう社会保障制度がもたない、慢性的な歳入不足で、生産性がない老人を生産性のある若者の負担で生かしていく社会は持続しないことはみんなもう分かっているよね。

 歳入不足というのは字面だけの問題じゃなくて、海外でいっぱい稼いで、国内のサービス業を回し、そのサービス業の一定の割合が老人介護という競争力もへったくれもない分野に費消されているわけ。そりゃ、だんだん貿易黒字も目減りして、金融収支一本で回していくことになる。

 無理でんがな。

俺は、この手の話には、年金を賦課方式から積立方式に変えれば解決みたいな話と似たところがあるんじゃないかと思う。

財やサービスは積み立てられない: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
お札を食べて生きて生けるならともかく、お金はモノやサービスに変換しなければならないのであり、そのお金やサービスを提供するのは現役の労働者であるから、賦課だろうが積立だろうが、老人が同じだけの金を使用できるなら、現役の負担は同じだ。


アリとキリギリスの話はアリが食料を蓄えていたから成立する話であって、銀行に預けていたのでは成り立たない。銀行の金庫が空だったら、もしくは札束しかなかったらアリも飢え死にする。


で、上の話をモノやサービスに変換すると、働けない老人が増えると労働者の負担が増えるという話になる。話を単純化して、自給自足で米を作り米を食べて暮らしている100人の村で、100人分の米を作るのに80人必要なのに老人が50人いたら村は破綻する。


ところで、これは思考実験だから事実とは異なるだろうけれど、原始社会では100人全員が働かなければ100人分の食料が生産できなかったとすると、1人でも欠ければ餓死者が出る。こういう社会では「働かざるもの食うべからず」ということになるだろう。


やがて技術が進歩して90人で100人分作れるようになれば、働けない人に分配する余裕ができる。さらに80人になれば働くことが可能な人でも不要な人が出てくるかもしれない。そうなれば働かないで労働者から搾取して生活する人が出てくるだろう。しかし、それだけではなく、余った労働力を他のことに使用することを考えるようになるだろう。米を加工して酒にするとか。すると米を作るために必要な労働者の数が増えると共に、米を作らない労働者の数も増えることになる。


ただし酒は嗜好品である。とはいえ一度酒の味を覚えたからには、酒を呑めなくなるのは苦痛になる。すると何らかの事情で米作りに必要な労働者が不足するような事態になったとき、酒を造らなければ餓死者が出ないのに、酒造りのために餓死者が出てしまうということも有り得る。


現在では生産性の向上により、食料生産に必要な労働力は少ない。余った労働力は別の用途に使用され、それが豊かな生活を発展させてきた。酒の味を覚えたら飲めなくなるのが苦痛なように、今さら原始時代の生活に戻ることはできない。


しかし、果たして余剰労働力は我々の生活水準の向上に全て貢献しているということができるのかといえば疑問が出てくる。老人は働かなくても扶養すべきという共通認識があるとしても、現役世代に対してはそうではない。働かなければ飢え死にだ。すると生きるためには必要とされる仕事が特になくても仕事を創造しなければならない。


仕事のための仕事が必要になってくる。


現在問題になっているのは失業問題であり人手不足ではない。余剰人員にいかにして仕事を与えるかが大問題になっている。ところが消費者側にはこれといって特に欲しいものがない。つまり需要不足ということだ。それでも何とか需要を掘り起こそうとしているのが現状だ。


言っちゃ何だが、果たしてその仕事は本当に社会の役に立っているのか?むしろ迷惑なだけじゃないか?という仕事はある。だけど、それをやめてしまえば失業してしまうのだから、そういう意味では正当性がある。


今後、労働力人口が減り、高齢者が増えてくるのだから、単純に考えれば人余りから人手不足になってくることが予想される。すると税の負担増だけではなく、物価も上昇することになるだろう。また国際競争力も落ちることになる(ただし円安になるかもしれない)。


けれど、老人がモノ・サービスを消費するために必要な労働力を、この「仕事のための仕事」からシフトさせれば、それによって失うものと得るものを比較すれば十分利があるのではなかろうか?であるならば、高齢化社会の負担増はある程度相殺できるように思われる。


間違っているだろうか?



ただし、何が「仕事のための仕事」なのか?そしてそれをどうやってシフトさせるのかというのが難問になる。下手すれば計画経済みたいになってしまう。