映画「かぐや姫の物語」

俺が『竹取物語』について書こうと思ったきっかけは匿名ダイアリーに書かれた記事がきっかけだった。
女の子にかぐや姫の物語は見せてはいけない

映画そのものに興味はなかった。そもそも映画の存在すら知らなかった。そこでいかに原作の改変が行なわれていようと構わない。ただあの記事が原作でもそうなっているかのように書いていたのでそれは違うだろということを言いたかったのだ。そんでそれだけで終らず俺の『竹取物語』の解釈について書こうと思い立ったというわけ。


で、映画についてだけど俺は見てないので批評できるはずもない。いずれテレビでやるだろうからその時に見るつもり。


ただ、この映画は話題作なので、そしてネットではアニメに対する関心がことさらに高いので、この映画に関する記事を多数見かけるようになってきた。そういう記事を読んで、この映画がどういうものなのか間接的に想像することができる。いや、できるはずだ。ところがどうもよくわからない。


俺が納得した感想はこれ。
姫は結局、殺された。―『かぐや姫の物語』を観て - ゆーすとの日記
いや、納得したといっても映画を見ていないので、原作の解釈としてという意味だが(全てに納得しているわけではないが)


天上界は清浄な世界、地上界は穢れた世界。にもかかわらずかぐや姫は地上界を愛した。

かの都の人は、いとけうらに、老いをせずなむ。思ふこともなくはべるなり。さる所へまからむずるも、いみじくもはべらず。老い衰へたまへるさまを見奉らざらむこそ、恋しからめ

竹取物語〜現代語訳


これが『竹取物語』の重要なテーマだ。老いることもなければ思い悩むこともない理想郷よりも穢れた地上界のほうが愛おしいというのは当時の一般的な価値観とは逆の人間賛歌である。


であれば、地上における様々な人間ドラマは賛美されていることになる。5人の貴公子の一見すると醜い行動でさえ人間だからこそということになるはずだ。


ところが、こっちの記事には

ま、それはそれとして。この映画では、月人たる姫が色彩乱れる混沌たる地上に憧れたことが罪とされ、穢れたる地上に降ろされて生きることがその罰とされている。なにしろ月の世界じゃそういうことになっている。しかし映画で描かれるのはその反対で、生命溢れる地上の混沌の素晴らしさが姫を魅了する。姫は山で暮らし野を愛し、活き活きとして健やかだ。一転して、都に移り住んでからの暮らしは苦痛でしかない。

と書いてある。こっちは自然賛歌であって人間とりわけ都会の人間の醜さへの批判ということになるだろう。


どっちやねんって思う。


なお「都に移り住んで」とあるが、原作ではそんなことは書いてない。竹取の翁の家は山の麓の近くにあって、帝は狩に行くという名目で家を訪ねたのだ。また、かぐや姫が家の外で遊んだという描写もない。家の外には一歩も出たことがないのではないか?昔のお姫様ならそういうことは珍しいことではないだろう。