江戸しぐさは「創られた伝統」なのか?
「創られた伝統」というのはエリック・ホブズボウムの著書『創られた伝統 (文化人類学叢書)』から用いられるようになったんだと思われ。
- 作者: エリックホブズボウム,テレンスレンジャー,Eric Hobsbawm,Terence Ranger,前川啓治,梶原景昭
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1992/06/01
- メディア: 単行本
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残念ながら俺はこの本を読んでない(図書館になかった)。だから『創られた伝統』の定義がわからないんだけれど、たとえばタータンチェックのキルトはスコットランドの民族衣装で家ごとに柄が決まっているというようなことは、実はそれほど昔からあったものではないといったようなことが述べられているんだろうと思う。
つまり、「人々が大昔から続いてきたもの」だと思っていたものが、実はそうではなかったという話ではなかろうか?
で、問題は「創られた」なんだけれど、語感からすると「意図的に創られた」みたいに感じられるのだが、果たして「創られた伝統」とみなされているものが全てそうなのかといえば、そうではないのではないかと思うのだがどうだろうか?
人々がなんとなく「ずっと前からあったんだろう」と思っているものもあるんじゃなかろうか?もちろん、そこにはマスコミや文化人が介在していて、それによって確固たる信念みたいになってしまったものもあるんだろうけれど、それも意図してそうしたわけではなくて、伝える方も、なんとなくそう信じていたということもあるんじゃないだろうか?
で、この場合「伝統」とされているものは現に身近に存在している。ある程度の期間存在しているけれど発祥はそんなに古くない。そういうものが対象になっているんじゃないかと思うんだけれど「江戸しぐさ」の場合はそうではない。
我々は「江戸しぐさ」なるものを少し前まで全く知らなかった(当然だ)。突然登場したのだ。
さらにいえば「江戸しぐさ」とは呼ばれてはいなけれど、我々がそのマナーを知っていて、その発祥が江戸時代の江戸の商人が発祥だったという話ですらない。我々は「江戸しぐさ」を引き継いでいない(当然だ)。そもそも「江戸しぐさ」なるものが実在していたとしても、それはたった1人の人物に伝えられてきただけで、そういうのを(日本の)「伝統」と呼ぶこと自体がふさわしいのか疑問である。
というわけで、これを「創られた伝統」と呼ぶことには同意できかねるのである。