寛永通宝

『新説!?みのもんたの歴史ミステリーSP』
テレビ東京でやってた。まあ質の低いトンデモですね。


ただ、一つだけ面白そうなのが吉村作冶教授がやっていた香川県観音寺市の「銭形砂絵」。


銭形砂絵(ウィキペディア)

1633年(寛永10年)に、丸亀藩藩主の生駒高俊侯が領内を巡視することになった折、土地の人々が歓迎の気持ちを現わすため、急拠白砂にクワを入れ一夜にして作りあげて藩主に捧げたと伝えられてる。


ただし寛永通宝を幕府が鋳造したのは寛永13年からなので、実は辻褄が合わない。検索すると、いろいろな説があるようで、元は豊臣家の馬印「瓢箪」だったのではないかという説や、明治になってから作られたという説もある。いつ誰が何のために作ったのか謎。


東西122m・南北90mの楕円だが、琴弾山山頂から見ると、円形に見えるという。で、吉村教授は「寛永通宝」が東西南北に配置されていることに注目。特に「宝」の文字の方角に財宝があり、それは西の方角にある「伊吹島」であると。


録画していないので、確証はないが、そういう方向に話が進んで、実際に伊吹島に取材班が行くということになったと思う。


ただ、
⇒ウィキペディアの画像
を見ると、海の方角に「寛」の字がある…記憶違いかもしれない。


確かに「寛永通宝」が「東西南北」に位置しているのなら、方位信仰と何か関係があるのかもしれない。


で、調べてみると、真西に伊吹島があるのは確か。ちなみに「伊吹(いぶき)」とは風のことで、谷川健一氏等の民俗学者が金属精錬に関係する地名だと考えているのが気になったりする。しかし、それ以上のことはわからない。
で、逆に真東に何があるかと言えば琴弾山があって、六十八番札所神恵院と六十八番札所観音寺がある。その神恵院の縁起が面白い。

大宝3年(703)、琴弾山で修行をしていた法相宗(ほっそっしゅう)の日証上人は、八幡大菩薩を乗せた神船が近くに漂着したのを発見した。それを里人と一緒に琴弾山頂に運び、社殿を作って琴弾八幡宮を祀ったと伝えられている。

神恵院 (いやしの道)


というわけで、八幡大菩薩が西は大分県宇佐から遠路はるばる舟でやってきて、琴弾山に登ったということで、すなわち琴弾山から寛永通宝を見れば、八幡大菩薩の来た方向を拝めることにもなるわけで、八幡大菩薩本地仏阿弥陀如来であって、西方極楽浄土信仰なわけで、もしかしたら関係するかもねって、何の証拠もないので俺のトンデモ妄想だけど、「埋蔵金」よりはましかなって思わなくはないけど、まあどっちもどっちか。すんません。